表現者とは、表現するとは・・・すべての色をつかってこそ! |
音だったら、すべての音
言葉だったら
すべてのことば、
美し言葉も、濁った言葉も
汚い言葉も、卑猥な言葉も
暴力的な言葉も
官能的なことばも
すべてを
使いこなして
表現したい。
上下、前後、左右も
平面も立体も
俯瞰も
パノラマも
ありとあらゆる空間を
使って
表現したい。
表現したいものはなにか?
それは
人間と世界です。
つくづく勿体なあーと
思うのは
その立体性や
全体を描いてゆくには
無意識の世界を解析していかないと
できませんからね。
そういうスケールの表現者が
なかなか出てこない。
そして
表現者として
私が優れているなあと思う人々は
みんなこの無意識の領域までを
包括している。
学術研究者も
文学作家も
アーティストも
映画の監督も
芸人も、
例えばビートタケシ氏などは
大変な読書家であり
アリトアラユル事への好奇心をもつ
探究者でもあるから
もしかしたら
それも射程に入れているかもしれませんね。
ただ脳科学者の、
茂木健一郎さんなどは
多分
頭で解っているだろうけれど
自分の無意識の層の解体までは
やっていないなあーと思います。
なぜなら
彼は
なんだか大衆にすり寄っていて
大衆コンプレックスがあるように
見える。
大衆からの自立(自律)が
欠けているように
見えます。
表現者は
大衆から自立していないとねえ・・。
タケシ氏も
多分頭では分かっていると思うけど
昨夜のテレビなどを見ると
どうもまだ、最後の品格みたいなところを
彼が護っていて
融けてないなあ・・とも
思います。
むしろサンマさんの方が
からだで解っているような
気もしますが・・・?
表現者が
自分の無意識層にメスをいれ
それを解体して後、
意識と統合して
再構築しない限り
表現されたものは
片手落ちといいますか
自分の意識の認可内・・・でしか
表現ができない。
意識の認可内でしか
人間も世界をも
理解できないですから
当然そこで表現されたものは
半分か
三分の一だけの表現にとどまってしまうのは
自明の理です。
私の身の廻りにも
表現者はたくさんいますが、
残念なことに
私の言葉を理解できるい人は
ほとんどいない。
だから私はいつも
不完全燃焼や
不全があるなあ・・・・。
まあ、寂しい限りですけど
他者のことは
どうでもいいですから
まあ
それは置いといて、
昨夜久し振りにみたNHKの「清盛」は
ひどかったですねえ!
この脚本家も
演出家も
どうして
圧倒的”大ワル悪人”の清盛を
描かないのさ。
なんか小ワルの
小市民的な清盛を描いても
しょうがないだろうに。
あの松田聖子の祇園の女御は
なんなのさ・・・ねえ!
中途半端にでてきて・・・。
(これは見た人だけしかわかりませんが・・?)
権力を奪取した
圧倒的な大ワルを
描いてこそ
逆に
そこに
人間が現われてくる。
脚本家も
演出家も
びびって、腰が引けてる。
大衆に媚ながら
大衆を蔑視しているから
大衆のホントの怖さを
知らない。
視聴率ががた落ちらしいけど。
何回も書くけど
この世に顕れているのは
すべて
自分の意識と無意識の投影ですからね。
無意識は
意識に逆立ちしており、
その二つ領域を
常にシャッフルしながら
人間は
その人の”今”を生きている。
優等生ばかりでいきても
クソガキや
ワルで生きても
用心深く生きても
雑にいきても
それらはすべて
半分の人生で
つまらない人生だねえ・・・。
そしてそれは
やがては崩壊するから・・・ね、
全体性を取り戻さない限り・・。
ゴウマンなことを言いますけど
少しずつ時代が
私に追いついてきている・・・・???
ホントに傲慢ですみません。
でも
表現者、そして表現者ではなくても
表現したいなら
早く気が付いてもらいたいなあ・・。
まあ
それに役に立つかわからないけど
少しずつ人物スケッチを
書いてみようかなあ・・・!
まあ
気が向いたら
書きましょう!
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たくさんの方に見ていただきたいと
思いますので
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『伝心柱マガジン』