ひとを愛するとは・・・がんじがらめにすればするほど人の心は離れていく。 |
翻って、自分を愛するとは・・。
人間は
がんじがらめにされれば
されるほど
その人の心は
離れていきます。
ひとを愛するとは
愛するその人が、
その人らしく
イキイキと
自由に生きることを
受けいれることです。
あるいは
そういう関係を
保障する。
愛するとは決して
相手を所有することでもなく
相手を支配することでもなく
相手を征服することでもなく
また逆に
自分を我慢させることでもなく
相手に媚びることでもなく
自分が献身することでも
決して
ありません。
愛するとは自分も相手も
両方が解放され
イキイキと
生かされ
生きることです。
自分ばかりを愛している人間は
相手を縛っておきながら
でも
だけど
だって・・など
自分の言い訳ばかりを言います。
そういう言い訳場ばかりを聞かされることが
相手にとって
どれだけ不快で
哀しいことかが
理解できないからですね。
誰だって
言いたいことは百も二百もあり
自分を護り
言い訳したいことが
千も二千もあるでしょう。
しかし
そういう人たちの間では
愛は育ちません。
育つどころか
愛が逃げていくばかりです。
自分の言い訳の押し付け合いばかりの
無残な
荒涼たる風景しか
残らない。
誰だって
言いたいことは百も二百もある・・・しかし
それでも
そういう自分を
ひとまずおいて
相手の立場にたって
相手の痛みや哀しみに
寄り添う・・・それが
愛情です。
自分の痛みや悲しみばかりに捉われるのは
エゴです。
そのエゴを超えない限り
愛などは
有りえない。
魂レベルでの出遭いなど
有りえる訳がない。
自分の中に
ズキズキと痛む深い傷があり
とうてい自分に非があるとは
思えなくとも
それでも
私もこんなに傷ついているけれど
ああ
あなたも、
そんなに深く傷ついていたのね。
という
その
たった一言の
相手へ寄り添う言葉こそが
相手の心の傷を瞬時に癒します。
溶かします。
あなただってそうでしょう、
対立する相手
憎しみあう相手から
ああ私も苦しいけど
あなたもそんなに苦しんでいるのね・・・と
言われたら
その一言が
どれほど
自分を掬いあげてくれるか…。
自分ばかりが救われることを
求めるな。
相手を責めることをやめない限り
一切の解決はありません。
まずは
自分の事はおいておいて
対立する相手
憎しみ合う相手を
自分の懐の中で
包み込む。
それが
愛であり
愛情です。
愛する・・・のですよ・・・。
それが嫌だったら
愛など求めなさんな。
相手との
魂での出遭いなど
求めず
ずーっと対立と憎しみを
続けて生きていけばいい。
多くの人間が勘違いをしている。
つながりが切れることを
恐れ
つながらない事を
恐れ
だから
相手の心がどうであるかより
繋がりばかりを
求めてしまう。
そうじゃないです。
繋がりなど
どうでもいいんです。
それよりも
相手も自分も
同じように
それぞれの自分を
生きているか
それぞれの自分を
生かして生きているか
お互いが
そういう関係の中に
いるか・・・・どうか
です。
必要なのは
自分も生かし
相手も生かすには
どうしたらいいかを
考えられる知恵と勇気です。
最後に
人間がもっともその人間の能力を生かす時は
何からも縛られず
誰からも拘束されず
まるで
赤ん坊のように
無邪気な自分を生きている時です。
そのイキイキと輝いて生きている時こそ
自分も
相手も
愛の光に包まれている。
愛とは
そういうものです。
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