ひとを愛するとは・・・希望です。 |
愛とはいつも
そこに希望の光が射されることです。
ひとを愛するということは
相手から愛を貰う事でもなく
自分を犠牲にすることでもなく
愛されなくて絶望するという事でもなく
愛した人も
自分もが
共に生かされ
生きるということであります。
人間は誰もが
たった一度の人生を生きるのであり、
そういう意味では
すべての人が
平等であり、
公平でなくてはならない。
故に
その人は
いかなる人からも
誰からも
愛という名で
エネルギーを
奪ったり
奪われたりしてはならない。
また愛という名に於いての
他人への心理介入をされたり
したりしても
いけない。
※心理介入とは、相手に対して心理的に深入りして
きっと〇〇ではないかとか多分~だろうとか推測や
詮索をして、決めつけたり、
自分の都合のいいように指示や命令や助言で
相手を心理コントロール、心理支配しようとすることです。
はっきりと断言します。
脳科学の見地からも
心理学の見地からも
自分と他人の心理はまったくのべつものです。
他人の心理など推測や詮索で当たるはずがないのですよ。
ほとんどが勘違いや思いこみの妄想に終わります。
推測や詮索などで相手の心を図かるのは
他人の心に対する越権行為です。
しかしまだまだ多くの人達が
そういう事を平気でやってしまっているのが現状です。
そのことに一人でも多くの人が気づく時代が
来てほしいですね。
愛するなら
決してその人の
一度きりの人生の貴重な日々を
自分のエゴや依存のために浪費しては
いけない。
愛するなら
自分も不用意に
相手に介入させたり
相手のために犠牲的なエネルギーと
心理の浪費を
しないことです。l
相手も
自分も
ひとりの
かけがえのない人間であることとは
ひとりの自立した人格であると
いうことを
肝に銘じておかなくては
ならない。
それはたとえ子供でも
大人でも
なんら変わりなくです。
愛することとは
すべて
人間の命の働きであり
命を全うするための
善きエネルギーとなるように
善き人生へ結実していくことに
繋がっていかねばならない。
愛することが
お互いの破綻や絶望になっていくとしたら
それは
愛では
ありません。
欲です。
やがていつかは、
お互いがその愛の意味に気づき
それを超えてゆくために
そのために
時として人間は彷徨い、ぶつかり、傷つくという
人生の苦悩と苦闘を引き受ける。
しかし
その苦悩も苦闘も
その先には
”光”がある。
そのためには
自分も相手も破滅したり
犠牲にならないように
知恵を絞り
正面から
向き合い
あきらめずに
解決してゆく。
それが明日へ向かう希望となるように
努力する。
愛するという事を
ロマンチックに
感傷的に考えたり
自分の感情の渇きを埋めるために
自分の甘えを託したり
相手からのエネルギーや
癒しを求め
依存したりする”にせものの愛”は
いつか崩壊する。
愛するということは
自立するということと
同じほどに
厳しいことであり、
それは常に自分の
”在り方”を問われ、
跳ね返ってくる。
安易な愛は
すぐに壊れ
安易な愛を求める人間は
すぐに
傷つく。
傷ついたら
その人間の頭の中は
自分の事ばかりでいっぱいになる。
つまり
エゴの塊にしか
ならない。
もう一度
傷ついた自分ばかりを抱きしめている人間は
エゴの塊の自分に気づくことができず
ナ―ンも解決することが
出来ない。
そこには
可愛そうな被害者意識の塊の
自分しか
残らない。
どだい
自分の心の傷や欠損を
他人で埋めようということそのものが
安易で安直で小児的ですよ。
愛するとは
人を愛することによって
自分を見据え、
人間を見据え
自分をいかし
他人をも生かすことによって
はじめて
それが
実り成就していく。
愛情の確執の真っただ中に
いる人は、
自分を信頼し、
自分が愛した人間を信頼し
すべての事を
自立(自律)した人間の精神に於いて
自分で解決していく決心と
努力が必要です。
双方が
自分も
相手も
ともにその確執やトラブルから
抜け出すその先に
希望を見ながら
解決していく。
最後に自立(自律)した精神の奥には
自分にも
他者にも
同様に
向けられている
人間への
優しいまなざしが
あるはずです。
告知
11月いっぱいの上映中
映画「流・ながれ」のチケットを
私より皆様へギフトいたします。
とてもいい映画ですから
是非ご覧いただきたいので・・・。
ご希望の方はコメント欄に
非公開で住所、氏名 そしてご希望の枚数を
お知らせください。
たくさんの方に見ていただきたいと
思いますので
どうぞご遠慮なく!
●「流・ながれ」のホームページはこちらです。
『伝心柱マガジン』