人を愛するとは・執着から解放されること。 |
そのまま起きて
お風呂に入りました。
最近は夜も7時を過ぎると
こっくり、こっくりとしてきて
そうなるともう
お風呂に入るのも面倒で
さっと湯船に30秒くらい浸かって
あがっちゃいます。
ですから身体も頭もほとんど洗わず、
仕方がないから
朝ぶろで髪を洗い、
たまに体も洗います・・・・笑!
鍼灸の先生に
それを話したら
先生から、それでよろしい!との
お墨付きを頂きました。
逆に老人が身体を洗いすぎて
皮膚の痒みや皮膚炎をおこしているから
それくらいズボラでいいとのことでした。
残念なのは、
以前は髪を洗ったまま寝たので
朝起きると寝癖が付いており
それが結構楽しかったのに
朝風呂だと寝癖が付かない!
朝起きて髪の毛が
四方八方にピンコ、ピンコと
散らばっていて
それを見て娘が大笑いで
私も大笑いで楽しかったのにねえ~!
国民新党を追い出された
亀井のオッサンや
昨日のニュースでみた
名古屋の河村市長の寝癖も
楽しいし
愛嬌がありました。
亀井のジイサンは多分こころが
綺麗だとおもいますが
河合氏はかなりの
クセモノだとおもいますよ・・・????
さて今日は
人を愛することは
自分も解放される・・という事を
書こうと思います。
自分が愛される
愛されたいと思っている限り
それはいつも
他者との綱引きというか
格闘というか
葛藤の中に自分が放りこまれますが、
そうではなく
人を愛し
愛そうとして
自分のふところに
他者を入れた途端に
人間はほっと解放されます。
それは
愛する・・という事が
自分の主体の行為だからです。
相手からの反応を期待したり
待っているという
受け身の自分は
動機が不純です。
それに
ホントに草臥れるし
消耗しますが、
相手から愛されようが
愛されまいが
自分は相手を愛するというとき
そして
その見返りを求めないときは
自分の主体がチャ―ンと
肝を据えており
自我が定まっていきます。
自我が定まる
つまり
自我が動じない…という状態こそが
その人間がしゃんと自立している時で
そうなるともう
他者のことも
自分の外部におきることも
関係なくなりますからね。
でも
人を愛することで
自分を満たそうとする行為は
イケマセンヨ。
それは
愛することで見返りを求める
自分のエゴですからね。
そうではなく
最初に
自分の主体があり
自分の主体が相手を受け入れ
包みこもうとする包容力こそ
自分の自我が
自分の執着から
解き放たれることなのです。
昨日のパウロの言葉には
そういう効果というか
威力があると思います。
すべてのことは
自分の主体が
しゃんと立ち
自分の主体の意志で
いきるときこそ
そこに解放がある…という事ですね。
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『伝心柱マガジン』