京都、紅葉の旅、河井寛次郎美術館! |
豊饒なる桃山文化世界の中心に
自己を設定していく等伯と
狩野派との確執を戦う等伯。
権力を志向する等伯と
権力に反逆する等伯という
アンビバレンツの真っただ中を行く
人間の姿がありました。
そして
そこから
今度は
真逆の人間である、
自己世界を完結(簡潔)し、
表現していった
河井寛次郎の美術館へと
行きました。
まず感じたのは
このオッサンは
”女”を愛したのだろうなあ・・という
素朴で率直な感想です。
陶器や木工作品の中に溢れる
美しい曲線はまさに
女性を愛でる人間の視線であり
”女”を含めた
その人間の日常がすべて
作品へと収斂しているように
見えました。
男にも
いろいろあってね、
前にも書きしたが、
”女”を愛する男と
”女”を消費していく男が
あってね、
寛次郎翁は
まさしく
”女”を愛した男だと
思います。
だから先品には
ほのかな色気と言いますか
官能があります。
それと
一刀彫のような面取りと
立ち上るエネルギーのような
文様に流れる
ドンとした存在感は
寛次郎自身が自己の
総体で生き
総体で作品を創っていたことの
証しのように思えます。
人を愛することは
自分の都合のいいところだけ愛することとは
違います。
”女”を愛する男は
女のすべてを愛し受け入れるのであり
女を消費する男は
女に依存しては
自分の愛し方でしか愛さず、
次から次へと
女性を消費していく。
このことは
男を愛するる女にも言えますが、
しかし
女性は男と違い
人間の全体を創り出し
包括する機能ととしての
子宮を持っているが故に
男を自分の全存在で愛そうする傾向が強いように
思います。
人を愛することは
相手の総体が見えてくることであり
相手の総体に向き合うには
自分の総体が必要になります。
まあ
これがなかなか難しい!
でもね
寛次郎がそうであっただろと
私が思うのは
先品のなかにあった
天を指さす人差し指の像で
それはまるで
釈迦のことば
「天上天下唯我独尊」のようでした。
この言葉の意味は様々な解釈があり
本来の釈迦の意図するところは
なんだったのかは
分かりませんが、
私はこれは一つの宇宙観だと
思っています。
自分というのは
個(孤)であり全体でもある。
自分は自分でもあり
他者でもある。
いきとし生けるもの(命あるもの)はすべて
常に
自分と自分を以外を
止揚しながら生きる。
そういう境地まで達したとき
人を愛する喜びが湧く
そして仕事をする(作品を創る)喜びが湧く!
そういう宇宙観を感じた
河井寛次郎の美術館でした。
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とてもいい映画ですから
是非ご覧いただきたいので・・・。
ご希望の方はコメント欄に
非公開で住所、氏名 そしてご希望の枚数を
お知らせください。
たくさんの方に見ていただきたいと
思いますので
どうぞご遠慮なく!
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『伝心柱マガジン』