京都、紅葉の旅、龍安寺石庭! |
高台寺の傘亭を見た後
新妻さんのリクエストで
龍安寺の石庭を見に行きました。
私はこのところ3度くらい行っていますが
やはりこの庭は凄いなあと
思います。
ただ残念なのは
たくさんの観光客で賑わっており
静寂のなかで…という訳には
いかないことです。
集中し自分の中に沈み込んで
庭と対峙するという訳にはいかない!
ただこの庭を見ると
人間の一番厳しいところを
みせてくれているようで
多分そうだろうなあ・・と
何度もうなずく。
人間の真実は
ほんとうは、
安直な甘えや情緒の感情を
すべて取り払い
とりつくしまもない
孤高の中にいきるしかないよ・・・と
突き付けられているようで
まあ日ごろ
その孤高の孤立を
お茶で濁して
成立している世間に対する
ものすごいアンチテーゼだと
思います。
人間の関係の幻想を
取り払った最後の最後は
孤高に孤立に立ち尽くしている自分しかなく
それを受け入れることは
背筋の凍るような
孤独を引き受けることだとは、
そうなんだろうなあ・・と
私自身もいつも心の底に
それを承知して生きることを
微かには垣間見ているのだが、
しかし
まだまだ陽炎のような
幻想で
そこを濁している自分がいます。
この庭を見るたびに
ここまで来ておしまいなさい・・・という
声がいつも聞こえる。
室町時代、応仁の乱や飢饉や飢餓の中で
一切の幻想がはぎ取られる中
人々が見た、人間の欲やあさましさの中に
それでも屹立するような香華の精神性が
この庭、枯山水の中に託されたのではないかと
思います。
龍安寺は臨済宗で
町田宗鳳さんの本などを読むと
臨済禅師の「臨済録」というのは
かなり過激な経典らしいです。
人間は
タダノひとで、それ以上でも
それ以下でもない。
それは
なにもかも奪われても
何も奪われていない自分が
そこにいる。
それが生きることだ…というように
です。
全部はぎ取られても
自分がおり
その自分はなにひとつ剥ぎ取られて
いない自分。
それが
「わたし」ということだ。
いいですねえ・・・・。
こういう境地へいきたいです。

石庭の裏に出ると
築地に光がさしていました。


この築地には胡麻油が混ぜで固めてあるそうで
500年たった今、
何とも美しく、見とれてしまいました。
日本の国の
日本の人々の
心理の通底を流れる
禅宗の枯淡の世界。
最後まで、自我の気迫を深くする等伯と
自己完結し枯れていく寛次郎。
そしてこの石庭
大切な大切な宝物です。
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非公開で住所、氏名 そしてご希望の枚数を
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たくさんの方に見ていただきたいと
思いますので
どうぞご遠慮なく!
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