京都、紅葉の旅、龍安寺石庭、その2! |
石は、心理的障害物を表し
その人間にブレーキをかけているもの、
或いは
感情を抑圧、排斥した世界を
暗示する。
しかしそれは一方で
感情を排した
精神世界の極まりを示すものでもありますから、
それが完成されたときは
高次の認識と知性へと昇華されていく可能性をも
持っています。
石っこ賢さんと呼ばれた
宮沢賢治の世界などは
最終的にそこへと至っていったと
私は思います。
龍安寺の石庭も
醜い戦乱の中で
ひたすら感情を排し
耐え
私心を精神力へと変えていった人間の
高次の精神世界の表現のようにも
思います。
そこには
戦乱の世を超越すべき
意志と精神の作用があり
これ以上削ぎ落とす処はないと
いうまでに
究められ、
厳しい禅に導かれた
不動の境地(覚悟)があるように
思います。
同様に
高台寺の奥にある円徳院の
寧々の居室から見える
石ころだらけの枯山水を見たとき
咄嗟に浮かんだの
女として戦乱を生きぬき
苦悩の中で磨き抜かれた知性が結実していった
寧々の精神世界のの厳しさであり
もはや軟弱者でしかない夫秀吉を
遥かに超えてしまったのだなあーという
感慨が浮かんできました。
厳しいところを生き抜いたひとは
どんどん自分の余計なものを
削ぎ落とし
その骨格で生きようとします。
逆にいうと
その骨格さえあればいいんです。
骨格とは
意志や信念だと思います。
しかし
それよりもっと進むと
骨格さえいらなくなると
私は思っている。
もはや立ち上る
陽炎のようでいいかも
しれない。
最後は泡のように消え去る。
寧々もそこまでいったのかなあ・・?
人間は、生まれてきたからには
生きるしかない。
なんのために生きるか・・と問われても
答えようがない。
しかし
生き抜いてみなければ
何もわからない。
以前も書きましたが
心の中に重いものを抱えたまま
関越を車でぶっとばしていたとき
ふっ~っと天から
「生きるだけでいいよ!」という
良寛のことばが聞こえた気がしました。
当時の私は
懸命に言葉を探しながら
良寛の漢詩を読んでいました。
『生きるだけでいい!』
自分を手掛かりに
自分を杖に
とにもかくにも
生きてみることだと
思います。
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非公開で住所、氏名 そしてご希望の枚数を
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たくさんの方に見ていただきたいと
思いますので
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『伝心柱マガジン』