人を愛するとは、すべてを自分の責任とする時、自分への信頼が生まれる。 |
『自分の責任とする』ことが
”できるようになった時”
こそ
『自分を信頼する』ということの
真の”意味”が解り、
その深い鍵が
解けていくと書きました。
人間の心は二つの対立するこころから
成り立っています。
ひとつは自分の本心である
無意識の心
もう一つは
他人や社会からの眼で判断された
意識のこころ。
意識の心は常に
外部(他人や社会)の反応に
反応しながら自分の本心を
加工し、
意識を造り上げていきます。
そして
無意識と意識は逆さまな関係に
あります。
そういう意識のはたらきの中でも
自分を信頼する…ということは
意識、無意識に起きてしまった
自分の感覚、思い、自分の行動すべてを
それでよし、と
受け入れることです。
それは
決して自分を否定したり
責めたりしない。
自分のすべてを全肯定することである。
そのことはこのブログで
口が酸っぱくなるほど
書きました。
自分のすべてを信頼し
それにOKを出していく。
つまり二つの対立する心のはたらきを
常に包み込みながら
自分の全体すべてを
受けいれていくということです。
しかしこのことをやり遂げていくのは
とても難しいです。
また自他の分離が出来ていない人は
つまり、
自分の意識が
親の意識の中にくるみこまれたままの状態にあり、
無意識の中にある
自分独自の意識(インナーチャイルド)に
気づかないひとは、
(自分の内面をみることができない人は)
自分の全体を
客観的にみることができず、
自分の中に対立する二つの心のはたらきが
あることすら
わからないでしょう。
前回『人間にはこころがある。』
しかしその心を甘くみているひとは
その”こころ”を軽く扱い
自分の大切な人との関係を
壊してしまうと
書きました。
実は、
その関係が壊れた時初めて
人間は、自分の行いの結果を
思い知らされます。
自分の大切な人を失う、
或いは、
うしないかけて
はじめて
その人間は、自分の行為の真実(実相)を
突き付けられるのですね。
自分の行為の真実(実相)とは
なんでしょうか・・?
その時、
その結果を相手のせいにせず、
自分の行為と
こころの在りようを
しっかりと見つめ直し
自我の歪みや硬直や思い込みに
メスをいれて
自分を解析していく。
(これは自我の怯えからくる
感情の抵抗にあい
その感情を突破するのが難しいですが、
そこを乗り越えなければなかなか
メスは入りません。)
つまり
すべてが自分の行為の結果である・・・と
気づいた人、
つまり
すべての責任を
自分に課した時
はじめて
その人は、
”自分の全体性”に
出遭います。
自分の真実(実相)に
出遭います。
相手に責任を転化している限り
或いは
自分も悪いが
相手も悪い…という風に
責任を分化している限り
そこにはいつも分裂した自分しか
有りえません。
分裂した自分とは
意識の上だけで、
結果についてあれこれと
いじくりまわしているだけで
無意識のところにある
自分の本心や
ほんとうの動機には
眼をつぶっている状態です。
起きてしまった結果を
無意識まで掘り下げて
自分の甘えや依存
自己防衛を
更にコンプレックスや
未熟さ、幼稚さを
ごまかさず
しっかりと
見つめることから
逃げている状態です。
はっきりというと
自分に起きてくることは
すべて
自分の行為の結果です。
それは自分がどのように他人や外部に
反応したか・・の結果です。
ですから
その結果が
無残な目も当てられないようなものなら
なおさら
そこをしっかりと
見つめ直さない限り
同じことを繰り返してしまいます。
そして行き着くは
人間不信ですね。
自分の大切な人間関係が
なぜ
壊れたのか。
なぜ
人は自分から去っていくのか。
それは間違いなく
自分に問題があり
自分の行為の
結果です。
しかしね、
しかし、ここから先が
いちばんの肝というか
核心というか
もっとも気が付かなければ
ならない事です。
自分の大切な人との関係は
まぎれもなく
自分が選んだ人との
関係であり、
逆に自分が選ばない人間との
関係など
成立しません。
人間は ちゃーんと無意識で
人を選び
必要のない人間は
スルーしていきますからね。
人によっては
イヤ、自分は選ばれたのだと
言い訳する人もいるでしょうが、
それも
自分が、”受け身”の形で
選らんだのです。
また
この”受け身”といういやらしい、卑怯な
存在の仕方をしているから
そうなるのです。
つまり
自分が選んだ人は
その時
自分が信頼していた人です。
自分が選んだことを
否定したり
相手を悪者にしたり
責任を転嫁しているかぎり
その人は
自分自身を否定することに
なります。
厳しく言えば
自己を防衛することばかりに
気を取られているが
そこにいるのは
幽霊のように
自分の実態を自己放棄放棄した
自分ですよ。
しっかり
自分の行為の結果を見つめ
解析し
受けとめたとき
初めて
自分の持っている問題点が
見えてきます。
しかしねえ、
私はそれを
問題点というより
その人間の未熟さだと
思います。
人間はそもそも不完全で
未熟なんです。
未熟だし
知らないし
教えられていない
発展途中なんだと
思います。
他者に責任転嫁をするのは
そもそも
自分が不完全で未熟だということを
受けいれられない。
つまり
無意識のところに
自分は不完全、未熟だという自覚がある人間ほど
自分は完ペキのように
自分を擬装するからねえ・・・!
残念な結果は
その人間の
甘えや、依存や自己防衛や
コンプレックスという
そのひとのの無意識の中にある
未熟さの結果であり
そして
その結果とはその時
その未熟者どうしの
共依存の中にあったものが
あぶりでてきた。
しかし
結果を受けとめ
すべてが
自分の中から発されたものであったと
自覚と
覚醒ができたときこそ
その不毛で無残な
人間関係からの
脱却
卒業が始まるのです。
自分が出遭った人々は
まさに
自分が選び取って関わった
大切な人々で
それらの人々は
自分の未熟さを共有してくれた人間です。
それは未熟で幼稚ながらも
別の意味では魂の出遭いでも
在るんですよ。
ぶつかり合う魂とでも
いいましょうかね~!
しかし
自分の未熟さに気づき
それを克服しようとする
”今の自分”にとっては
もう
必要ないひと
或いは
今の自分にふさわしくないひとである・・・かも
しれない。
人間はいつも
お互いを必要とするから
出遭うんですよ。
でもそこからが
人間修行の
はじまりなんですね。
相手を否定したり
悪者にすることは
相手に失礼だし
自分を貶めることでもあります。
相手の未熟さや
理不尽さがみえてきたら
それは
同時に
自分の未熟さでもあり
理不尽さでも
あります。
それがお互いに共振したからこそ
出遭った。
相手はまさに自分が選んだ人で
悪いひとでは
ありません。
自分とのかかわりで
自分に都合の悪い人になっただけです。
冒頭で書きましたように
『すべてを自分の責任とする』ことが
”できるようになった時”こそ
自分を信頼することが
出来たときです。
自分は相手のなにと
出遭ったのか・・?
しかしなにがその関係を
壊していったのか・・・。
それを考えること
そこには大きな人生のギフトが
あります。
すべては
なにひとつとして
無駄なものはなく
相手のなかのインナーチャイルドと
自分の中のインナーチャイルドが
出遭い
喜び、そして
お互いの中にある
「ほんとうのこと」が
ぶつかりあったからこそ
壊れてしまった。
インナーチャイルドの
ほんとうのことがぶつかり合わなかったら
喜ぶことも壊れることも
ありません。
壊れてこそ
そこから始まる。
それこそ
なにものにも勝る
ギフトでしょ。
相手の心の悲しみや絶望が見えてくるとき
自分の中に、
温かい、人間らしいほんとうの
優しさが湧いてきます。
相手の痛みに寄り添い相手を
赦すとき
自分も赦されていきます。
いっさい
がっさいの原因が
すべて
自分の中にある・・・という覚醒が
できたときこそ
自分の中の腹が据わり
肝が据わり
自分のアイデンティティーが
確立されてゆきます。
今度はその
いっさい
がっさいを
自分の武器にして
人生を
渡っていけるでしょう。
それは
自分を信頼しきり
どんな時も
自分を信じ
全力をもって
生きるという事だと
思います。
『伝心柱マガジン』