人を愛するとは、愛人なんかになるな・・・・その2 |
私はさっさと
彼を捨てます。
なぜなら私には
愛人などという存在そのものが
有りえないからです。
つまり
つまり男も女きっちり対等であるなら
お互いがしっかり向き合う関係ということは
愛人などという
恋愛のつまみ喰いなどのような
チャチな人間関係などは
介入できない。
人間と人間の在り方として
私には
有りえないという事です。
更に私も傷つき
愛人も傷つくような関係の中で
存在するような
甘ったれの男など
はじめから
必要ありません。
私という人間の価値をわからない者は
私には
ふさわしくない・・・という
確固たる信念と
誇りがあるからです。
それは、
家族になるということそのものが
お互いに
かけがえのない
存在になるということです。
その相互の認識と
了解があってこそ
子供たちを守り
育てることができます。
かけがえのない存在になるためには
自分の中にある
稚拙な感情を
捨てていかねばなりません。
それは夫婦としての自分も
親として自分にも
突き付けあっれる
人間として、どうあるべきかの
課題です。
だからこそ
結婚生活は
自分の中にある
相手への依存や執着という甘えと
闘い
支配欲、征服欲を取り除いていくという
自分のエゴとの闘いの連続です。
その根底にしっかりと
自覚しておかなければならないことは
お互いが
それぞれ一度きりの
大切な人生の時間を生きているという
認識です。
お互いは
それぞれが
自分の人生を生きる。
つまり自分を生かすことこそ
”生きる”という事です。
自分も相手も
両方が
自分のかけがえのない人生を
遂行するには
どうしたら
いいのか・・ということです。
結果的には
相手を生かすことが
自分を生かすことでもあり
相手を自由に放免することが
自分が自由に解放されることでも
あるからです。
愛人を作る人間は
チャ―ンと自分の伴侶と向き合い
戦わなければならないことを戦い
常に起きてくる
お互いの違和や不和を
きちんと受け止め
解決し納得して
生きているだろうか・・・?
私も初めから
このことが
分かっていたわけでは
ありません。
私だって
自分の中に沸々と湧いてくる
愛情の飢餓や
欠落感を
夫に求めた若い時期が
ありました。
自分の中には
確かに
独占欲や
嫉妬も山ほどありました。
しかし
それらの感情がもたらす結果は
関係がどんどん歪んでゆく
惨憺たる結果しか産まず、
心理的には
こころがどんどん疲弊、
荒廃してゆく中で
ひたすら負の感情が出口なく
堂々巡りをし、
エネルギーが
失われていきました。
根本的に間違っていると
気づき始めたのは
カウンセリング学や
心理学や
脳科学を勉強したことが
大きかったと思いますが
それと同時
じぶんを解析したことも
大きかったと思います。
こころのどこかに
うっすらと
あった
自分のエゴや甘えを
見つめなければならないなあーーという
気づきです。
独占しようとすればするほど
相手は逃げます。
また愛情の飢餓や欠落を
相手に求めれば求めるほど
それも相手の心理負担になり
あいてのこころは
遠ざかります。
そういう
自分の甘えや依存に気づかなければ
ならないなあ・・・と
ほんとうは
気づきたくなかったけれど・・・・笑
エイ・・と
自分をねじふせて
気づかせました。
よーく人間を観察すると
誰もが
どんな人間も
いっぱい、いっぱいの
自分を抱えて生きています。
そこに、他者までもが
入り込む余地など
ありません。
まあ
発情期の恋愛幻想には
まるで
相手が自分を幸福にしてくれるような
また
自分が相手を幸福にできるような
”大いなる錯覚”が生まれますが、
実体は
誰もが自分の事だけで
せいいっぱいです。
家族になった途端に
その幻想はたちまちのうちに
霧散していきます。
ふたりの人間の未熟さとその実体が
ムクムクと顕れてくるのです。
だからこそ
正面から向き合わなければ
なにひとつとして
分からないし
解決にならないのです。
ひとりの人間を愛することは
その生涯をかけて
やっとできるくらい
重く、大変なことであり
それはいつも
自分のこころとの戦いです。
その
お互いが裸になっていく戦いの中でこそ
はじめて
人間の絆ができていくのです。
どうですか
愛人なんて
入る余地がないでしょ。
そして、何度も書きましたが
人間の出遭いには
その人間が直面しなければならない
その人間の自我がもっている問題性が
潜んでいます。
つまり
自分の自我と伴侶の自我は
直面し戦わなければならない・・という
必然をもっているから
出遭うのです。
相手との葛藤や格闘のなかでしか
気づけない”答え”が
在るのです。
つまり
家族だからこそ
自我はぶつかり合うのです。
存在と存在の”ほんとう”が
ぶつかり合うのです。
そのぶつかりと戦いを超えていく過程でこそ
相手に対する深い理解や
こころからの労りが
生まれます。
反対に
自我のぶつかり合いを避けた家族は
空洞化していきます。
その空洞化の隙間にちょろっと
愛人を造ったり
愛人が介入したりするのです。
今の社会はまだまだ男性優先の
社会です。
しかし、そんなことなど関係ありません。
男性もいっぽんの大地に立つ大木なら
女性もそれに負けない大いなる大木として
お互いが対峙してこそ
人間と人間のまっとうな関係です。
夫も妻も
相手が突きつけてくる問題に
正面から向き合い
時には戦いを辞さない気迫で
望むことが必要です。
その戦いから逃げて
愛人を作る男など
私から言えば
論外の
軟弱ものです。
だから
さっさと捨てるのです。
もし
愛人の立場にいるのなら
すぐにそれをやめることです。
断っておきますが
愛人関係とか三角関係とかという
歪んだ関係に生きる人は
そういう心理的な傷がある人です。
どここかで
自分に自信がなく
自分をディスカウントしている人達です。
だからこそ
そのいびつな関係に自分を
安売りしてしまう。
※自分をディスカウントしている人間には
それにふさわしい人間が
コミットしてきます。
他人の悲しみや傷つきの上に存在する愛なんて
所詮
に・せ・も・の・です。
なぜ歪んだ
破綻するしかない愛を
選ぶんですか。
まっすぐの
透明で純粋な愛を
こころに
うしろから吹いてくる
気持ちのいい風にのって
真っ直ぐ
愛したらいいと
思います。
そういう相手と
出遭うために
自分を磨いて
ください。

