クリスマスに・・・・イエスの言葉その2 |
イエスの福音は
マタイ、マルコ、ヨハネ,ルカの
四人の弟子たちのものがあります。
マタイは当時の取税人、つまり公務員だったのですが、
イエスの説法を聞き弟子となります。
その弟子のマタイがこの福音書を書いたのかどうか・・は
まだはっきりとはしていませんが
新約聖書のトップはマタイが担っており
私もマタイの記事?(福音書)を読んで
とても心を打たれ、
聖書に魅せられていきました。
特に7章までは
ホントに言葉はステキです。
8章以後は説法的な話が多くて
この言葉の威力がすこし薄れていきます。
今日は昨日の続きの6章から
6章でイエスは祈りについて語ります。
祈るときはくどくどと祈るな・・・といい
イエスが説いた祈りのことばが
天に今します我らの父よ・・から入る有名な
ことばです。
天に今します我らの父よ
御名があがめられますように。
御国はきますように
みこころが天に行われるとおり
地にもおこなわれますように。
私たちの日々の糧を
お与えください。
私たちがひとに赦すように
我らの罪を許したまえ。
我らを試みあわせないでください。
我らを悪より
救いたまえ。
確かにこの祈りの言葉を唱えると
私もこころが落ち着きます。
そして
イエスは天の父、すなわち神を全信頼し
何も思い煩うことなく
神に自分をゆだねて生きよ、と
説きます。
あなた方に言っておく。
何をたべようか、
何を飲もうかと
自分の命ののことで思いわずらい、
何を着ようかと自分のからだのことで
思いわずらうな。
命は食にまさり、
からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがいい。
まくことも(種をまくの意)
刈ることもせず
倉にとりいれることもしない。
それだのに
天の父は彼らを養っていてくださる。
あなた方はかれらよりも
はるかに優れたもものではないか。
思い煩う事はないのだと
自然のままに
生きればいい。
その通りですね。
あなた方のうち、誰が思いわずらったからとて
自分の寿命をわずかでも
のばすことができようか。また
着物のことでおもいわずらうのか。
野の花がどうして育っていくか
考えてみるがよい。
働きもせず
紬もしない。
しかしあなたがたに言うが、
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどをも
着飾ってはいない。
今日は生えていて、明日は
炉に投げ入れられる野の草さえも
神はこのように装ってくださるなら
あなたがたにそれ以上よくしてくださらない
はずがあろうか。
まずは神の国の義とを
もとめなさい。
神の国の義とは
何でしょうか・・・?
私は人間が存在するということこそ
人間の知恵をこえて
命が生かされるように
すべてが準備されているということだと
おもいますが・・・。
生きるための
これらのものはすべて添えて
与えられるであろう。
だから明日にことを
思い煩うな。
明日の事は明日自身が
思いわずらうであろう。
一日の苦労は、
その一日だけで十分である。
ほんとうに
そうですね。
明日のを思い煩う必要などないのです。
今日いちにちの大変さを
ねぎらい、
明日はまた新しい日が始まるのですね。
さて
ここからは7章です。
イエスはとても大切な事を
ずばっと言いのけます。
人をさばくな。自分が
さばかれないためである。
あなたがさばくそのさばきで、
じぶんもさばかれ、
あなたの量るそのはかりで
自分にも量りあたえられるであろう。
なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら
自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目に梁があるのに、
どうして兄弟にむかって
あなたの目からちりを取らせてくださいと
言えようか。
偽善者よ、
まず自分の目から梁をとりのけるがよい。
そうすれば、はつきりと
見えるようになって
兄弟の目からちりをとりのぞけることが
できるだろう。
他人を裁くことは
自分を裁くことになる。
人間のほんとうの事
ほんとうの心
そしてその人間の運命も宿命も
どうしてそうなるのかの
ほんとうの原因も
決して他人には
分かりえない事です。
ましては
自分の浅はかな思いで
他人を裁くことは
とてもとても愚かな行為です。
自分の目に曇りの在ることを忘れて
他人の目のくもりばかり取ろうとする
偽善者に
まず自分の目の梁(目の中偏見とでも言いましょうか)を
取りなさいと
言っています。
そして
求めよ、そうすれば
与えらえるであろう。
捜せ、そうすれば
見出すだろう。
門をたたけ、
そうすれば、
開けてもらえるだろう。
すべて求めるものは得、
捜すものは見出し、
門をたたく者は
開けてもらえるからである。
自分の子がパンを求めるのに
石を与える者がいるだろうか。
魚を求めるのに
蛇を与えるものがあろうか。
イエスは神を信頼し
神の愛を求めよ・・と
説いているのですが
それは同時に
人間を信頼そ
相手を信頼し
自分のこころを開き
すべてのことは
自分の行為から
始まるという事ででもあります。
受け身や依存ではアリマセン。
自分の意志と努力によって
切り開けと
いうことです。
そしてさらに
狭い門からはいれ。
滅びに至る門は大きく
その道は広い。
そして
そこから入って行く者は
多い。
命に至る門は狭く、
その道は細い。
そして
それを見出す者が
少ない。
どうでしょうか・・・。
イエスの説くことは
自分の中の弱さや
自己矛盾や
そして自己防衛としての
擬装を解いて
自分の内面と向きあえ・・と
言っているように
思います。
その客観性こそが
世界宗教へと広がる大きな要因でもあり
そして
その客観性を立証するために
つまり
神の言葉は
ほんとうかどうか・・・ということの
検証と立証のために
多くの学問が成立していきました。
西洋の思想や哲学も
このイエスが伝える神の言葉
神の存在を巡って
論争が積み重ねられていきました。
この2000年前のイエスの言葉
明日は
イエスが最後に何をしたかを
書きたいと思います。
『伝心柱マガジン』
他人を裁くことは自分を裁いている事でもあり、また逆に他人を赦すことは、自分をゆることにもなります。他人との対立がなくなっていくことこそが、自分も解放されることであり、自分の中にいる他人からも解放されていきます。他人を意識しなくなるためには、できるだけ自分の中に入りこんだ他人を赦し、対立がなくなることです。このことは近い機会にブログで詳しく書きましょう。