2012年 12月 23日
クリスマスに・・・・イエスの言葉その3 |
さて、自分こそは神の子(天なる父の子)として
救世主としての
メッセージを持ってきた者であると
自称したイエスは、
当然彼が批判した
旧約聖書に生きる
既存の宗教家たちを脅かしたため
ユダヤの王と自称した罪で
捉えられ、秩序を乱す者として
ローマ政府に引き渡されまます。
当時の総督であるピラトは
彼は何も罪を犯してはいないと
彼を放免しようとしますが
興奮した反イエスの群衆が抑えきれず
とうとうイエスを十字架に磔て
しまいます。
その時
イエスは群衆から
おまえがほんとうに神の子というのなら
神がお前を救いに来るはずだ・・・と
罵られ嘲笑されます。
その時
もう十字架の上で
瀕死状態になっているイエスが
言います。
「我が神、わが神、
どうして私をお見捨てになったのですか・・・。」と
ああそうか、やっぱりイエスは見捨てられたのだ・・と
たいがいの人は思うでしょ。
でも
そうではないのです。
イエスが唱えた言葉は
旧約聖書のなかにある
”詩編”の22章の言葉を
唱え出したのです。
詩編とは、旧約聖書の中にある
”神を賛美する詩”のことで
約150編の詩が納められています。
その中の22章を
イエスが最後に口にしたのです。
それは
「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになったのか」・・という
神に対する、疑義の問いかけから
はじまるのですが、
やがてそれは
人間を救おうとする神への
絶大な賛美にかわっていきます。
神の意志のもとにいったんは
イエスが神から見放されたように
処刑されたように見え
イエスはそれを受け入れますが、
神の思惑はもっと深い処にこそあり
彼が自分の死は
人々を救うことの
引き換えにある。
それは、
神の愛と栄光を表すための
大いなる神の意志のためであるということに
なっていきます。
最初は疑義からはじまり、やがて
神への信頼を取戻し
自分の処刑を受け入れた時
始めて
民を救う大いなるかみの御業が
始まる・・・と
神を賛美して終わります。
神の真理、神を本質を唱える
イエスを理解することもなく,
自分達の保身とエゴに走り
無実のイエスを十字架に処刑しようとする
愚かな人間たち。
その愚かな人間を覚醒させるために
自分は神から与えらえた運命
処刑されるという運命を
受けいれる・・・と
イエスは詩編で伝えようとします。
人々を救おうとしている自分が
こんなにも
虐げられ痛めつけられたけれど
自分は生まれた時から
神に託された。
そして
自分を処刑する人々のために
神の国が来るように
祈ります。
あなたは私を生まれさせ
母のふところにやすらかに
わたしを守られたかたです。
わたしは生まれたときから、
あなたにゆだねられました。
母の胎をでてからこのかた
あなたはわたしの神でいらせられました。
主よ、遠く離れないでください。
我が力よ速く来て、私をお助けください。
わたしの魂をつるぎから
わたしの命を犬の力から助け出してください。
わたしをししの口から
苦しむわが魂を野牛の角から
すくいだしてください。
私はあなたの御名を兄弟たちに告げ
会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
主を恐れるものよ、
主をほめたたえよ。
ヤコブのもろもろのすえよ、
主をあめよ。
イスラエルのもろもろのすえよ
主をおじおそれよ。
略
わたしの賛美はあなたからでるのです。
わたしは主を恐れるものの前で
わたしの誓いをはたします。
略
どうかあなたのこころが
とこしえに生きるように。
地の果ての者は
みな思いだして主に帰り
もろもろの国のやからはみな
み前にひれ伏す出しょう。
国は主のものであり
主はもろもろの国を統べ治められます。
地の誇り高ぶる者はみな主を拝み
ちりに下る者も
おのれを生きながらえさせない者も
みなその前にひざまずくでしょう。
子々孫々、主に仕え
人々は主のことを
きたるべき代まで語り伝え
主がなされその救いを
後に生まれる民に
のべ伝えるでしょう。
と
自分が犠牲になることによって
罪深い愚かな人間の罪を
自分がいつさい背負って
処刑されることより
始めて
神の真理に気がつき
のちのちまでも
神の栄光と
その救いが
引き継がれ
語り伝えるであろう・・・と
イエスは死んでいきました。
詩編はながい・・・苦笑!
しかし
イエスの言葉通り
そこからキリスト教は
驚異的な発展を遂げていきます。
それはパウロという天才的な仕掛け人がいたこと。
そして
イエスの言葉は
善く生きるための手引書として
伝導書として
とてもわかりやすく
それまでの
形骸化し
人間を束縛する旧約の世界からの
解放があったからだと
思います。
さて
私はイエスが最後にくちにした
この詩編で
イエスがほんとうに言いたかったことは
自分の死はみじめなものではなく
神と人々とをつなぐために
自分が犠牲になること
その自分の姿を見て
心を打たれたものが
神の真理と
神の方程式とでも言いましょうか、
まっとうな人間
まっとうな宗教
まっとうな国をつくるために
目覚めてほしいというものだったと
思います。
それは
神との和解であり
エゴに走る弱い人間、
感情に走り
彼のことば=知を
理解できない人間達。
自分を十字架に張りつけた人々を
赦し
神へと導こうとする
最後の
やさしさ(愛情)だったと
思います。
イエスがほんとうに伝えたかったことは
神を信頼すること
それはすなわち人間の深いところにある
神のはたらきを
信頼し
人間が人間を
裁かないこと。
赦すこと。
和解すること。
人間はみな兄弟であり
お互いに
愛しあうこと。
いかなるどん底にあっても
この世に出現した自分の命を
尊び全うすること。
人間は神が
完璧なかたちで
この世におくりだしたものであるから
自分の中にある生命力を信頼し
野の花のように
空飛ぶ鳥のように
装わず、
思い煩わず
自然のままの自分を
いきること。
まあ、イエスは素晴らしいカウンセラーだと
思います。
イエスがいかに自分の内面を
客観的に見て
自己検証していたかが
わかります。
だからこそ
人間の心理に精通した言葉を
吐き続けました。
イエスがいかにそうであるかは
あるときイエスが説法をしていると
姦淫をしたという女が連れてこられます。
そして連れてきたユダヤ教の律法学者が
「モーゼは律法のなかで、姦淫した女は
石で打ち殺せと言いましたが、
あなたはどう思いますか」と
明らかにイエスを試そうとして言います。
それに対してイエスは
「あなた方の中で罪のない者がまず
この女に石を投げつけるがよい」といいます。
それを聞いていた群衆は
ひとり去り、二人去り、ついにはイエスと女だけが
残されます。
そしてイエスは
「女よ、みんなはどこにいるか。
あなたを罰するものはなかったのか」と
聞きます。
すると女は
「主よ、だれもございません」といい
イエスは
「わたしも貴女を罰しない。お帰りなさい。
今後はもう罪を犯さないよう。」と
言いました。
人間は罪をおかしたことがない人間など
誰もいません。
ここでいう罪とは
犯罪ととかではなく
嘘をついたり
ごまかしたりの
ちょっとした
こころの間違いのことを言います。
人間にはそういう自分に対する内省の心がある。と
言う事をイエスは知っているのですね。
そして
イエスから
一度も罪を犯したことのない者から
石を投げろ・・・と
突き付けられらた時
人々はチャ―ンと自分の心の中に
向き合いました。
それが素晴らしいです。
自分を内省する力
自分の内面を検証する知的な能力
それがあるからこそ
他者を赦し
自分もゆるし
そして和解することができるのですね。
人間の中には
そういう
神の技がチャ―ンと内包されてあるよ・・・と
イエスは
人間を信頼したのですね。
イエスに関しては
当時、イエスが処刑されたゴルゴダの丘で
確かに、イエスらしい修行者と
あと二人の囚人が処刑されたらしいということは
わかっています。
ただ
イエスの言葉を
編集し、それを世界宗教まで高めたのは
パウロだといわれています。
イエスの言葉はいつも
わたしのこころの中の汚れを
浄化してくれ、さらに
善く生きようという原点へと
戻してくれる
宝石のような言葉です。
しかし
キリスト教となると
それはまた別の問題を孕んでいます。
キリスト教は
この世は唯一の神が一元支配するもので
異教徒を認めません。
だから
地の果てまでと
詩編で唱えられたいるように
異教徒を改宗させるべく
世界中に宣教師を派遣しました。
だから
この日本にも
はるばると彼らはやってきましたね。
今はそれほどでも
ありませんが
それでも
保守的なキリスト教徒は
今でも
イスラム教徒や
仏教徒に対する偏見や卑下があります。
アメリカの大統領選の
おおきな票田にもなっています。
また世界を”グローバル化する”というのも
欧米の人間の深層心理にある
世界の一元化でも
あると思います。
世界中でクリスマスが
祝われますが
日本の人々は
果たしてイエスの言葉を
どれほど知っているのでしょうか。
まあ
宗教として
それに依存したり
マインドコントロールされるのは
よくありませんが、
でも
ひとりの人間イエスが
命がけに
人の道、生きる道を説いた言葉として
聖書は優れています。
※キリスト教信者は、イエスを神だとしており
人間だとは思っていませんが、
私はひとりの求道者だったと
思います。
イエスは人間の限界を超えた
おおいなるものとして
神と言いますが
私は人間の自我をこえたものが
人間の中には
内蔵されていると
思います。
それは
神とは”はたらき”であると
井上洋治神父が唱えられたように
どんなに澱んでも
いつかは澄んでくる
その澄んだ水が
人のこころのなかには
あると
私は思います。
良かったら以前のブログに書いたことを
読んでください。
どんな人間にも
自分を取り返すちから
自分を厳しく見つめる力があり
時にそれは
自我を超越して
様々な奇跡的な事へと
導いていきます。
ただ
それは
イエスの言うとおり
自分の自我の感情を
或いは
自我の防衛をする抵抗的な感情を
乗り越えなければ
なかなかそこへと到達できない
狭き門です。
しかし
善く生きるために
そして
ほんとう満たされた善き人生を
全うするために
できたら
イエスの言葉のように
お互いを赦し
和解し
そして
こころの中の対立から
解放されて
カランカランのこころで
スタスタと
行きたいものです。
明日のクリスマスイヴは
美味しいケーキを食べて
そういう心の
リセットの日だと
私は思います。

『伝心柱マガジン』
救世主としての
メッセージを持ってきた者であると
自称したイエスは、
当然彼が批判した
旧約聖書に生きる
既存の宗教家たちを脅かしたため
ユダヤの王と自称した罪で
捉えられ、秩序を乱す者として
ローマ政府に引き渡されまます。
当時の総督であるピラトは
彼は何も罪を犯してはいないと
彼を放免しようとしますが
興奮した反イエスの群衆が抑えきれず
とうとうイエスを十字架に磔て
しまいます。
その時
イエスは群衆から
おまえがほんとうに神の子というのなら
神がお前を救いに来るはずだ・・・と
罵られ嘲笑されます。
その時
もう十字架の上で
瀕死状態になっているイエスが
言います。
「我が神、わが神、
どうして私をお見捨てになったのですか・・・。」と
ああそうか、やっぱりイエスは見捨てられたのだ・・と
たいがいの人は思うでしょ。
でも
そうではないのです。
イエスが唱えた言葉は
旧約聖書のなかにある
”詩編”の22章の言葉を
唱え出したのです。
詩編とは、旧約聖書の中にある
”神を賛美する詩”のことで
約150編の詩が納められています。
その中の22章を
イエスが最後に口にしたのです。
それは
「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになったのか」・・という
神に対する、疑義の問いかけから
はじまるのですが、
やがてそれは
人間を救おうとする神への
絶大な賛美にかわっていきます。
神の意志のもとにいったんは
イエスが神から見放されたように
処刑されたように見え
イエスはそれを受け入れますが、
神の思惑はもっと深い処にこそあり
彼が自分の死は
人々を救うことの
引き換えにある。
それは、
神の愛と栄光を表すための
大いなる神の意志のためであるということに
なっていきます。
最初は疑義からはじまり、やがて
神への信頼を取戻し
自分の処刑を受け入れた時
始めて
民を救う大いなるかみの御業が
始まる・・・と
神を賛美して終わります。
神の真理、神を本質を唱える
イエスを理解することもなく,
自分達の保身とエゴに走り
無実のイエスを十字架に処刑しようとする
愚かな人間たち。
その愚かな人間を覚醒させるために
自分は神から与えらえた運命
処刑されるという運命を
受けいれる・・・と
イエスは詩編で伝えようとします。
人々を救おうとしている自分が
こんなにも
虐げられ痛めつけられたけれど
自分は生まれた時から
神に託された。
そして
自分を処刑する人々のために
神の国が来るように
祈ります。
あなたは私を生まれさせ
母のふところにやすらかに
わたしを守られたかたです。
わたしは生まれたときから、
あなたにゆだねられました。
母の胎をでてからこのかた
あなたはわたしの神でいらせられました。
主よ、遠く離れないでください。
我が力よ速く来て、私をお助けください。
わたしの魂をつるぎから
わたしの命を犬の力から助け出してください。
わたしをししの口から
苦しむわが魂を野牛の角から
すくいだしてください。
私はあなたの御名を兄弟たちに告げ
会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
主を恐れるものよ、
主をほめたたえよ。
ヤコブのもろもろのすえよ、
主をあめよ。
イスラエルのもろもろのすえよ
主をおじおそれよ。
略
わたしの賛美はあなたからでるのです。
わたしは主を恐れるものの前で
わたしの誓いをはたします。
略
どうかあなたのこころが
とこしえに生きるように。
地の果ての者は
みな思いだして主に帰り
もろもろの国のやからはみな
み前にひれ伏す出しょう。
国は主のものであり
主はもろもろの国を統べ治められます。
地の誇り高ぶる者はみな主を拝み
ちりに下る者も
おのれを生きながらえさせない者も
みなその前にひざまずくでしょう。
子々孫々、主に仕え
人々は主のことを
きたるべき代まで語り伝え
主がなされその救いを
後に生まれる民に
のべ伝えるでしょう。
と
自分が犠牲になることによって
罪深い愚かな人間の罪を
自分がいつさい背負って
処刑されることより
始めて
神の真理に気がつき
のちのちまでも
神の栄光と
その救いが
引き継がれ
語り伝えるであろう・・・と
イエスは死んでいきました。
詩編はながい・・・苦笑!
しかし
イエスの言葉通り
そこからキリスト教は
驚異的な発展を遂げていきます。
それはパウロという天才的な仕掛け人がいたこと。
そして
イエスの言葉は
善く生きるための手引書として
伝導書として
とてもわかりやすく
それまでの
形骸化し
人間を束縛する旧約の世界からの
解放があったからだと
思います。
さて
私はイエスが最後にくちにした
この詩編で
イエスがほんとうに言いたかったことは
自分の死はみじめなものではなく
神と人々とをつなぐために
自分が犠牲になること
その自分の姿を見て
心を打たれたものが
神の真理と
神の方程式とでも言いましょうか、
まっとうな人間
まっとうな宗教
まっとうな国をつくるために
目覚めてほしいというものだったと
思います。
それは
神との和解であり
エゴに走る弱い人間、
感情に走り
彼のことば=知を
理解できない人間達。
自分を十字架に張りつけた人々を
赦し
神へと導こうとする
最後の
やさしさ(愛情)だったと
思います。
イエスがほんとうに伝えたかったことは
神を信頼すること
それはすなわち人間の深いところにある
神のはたらきを
信頼し
人間が人間を
裁かないこと。
赦すこと。
和解すること。
人間はみな兄弟であり
お互いに
愛しあうこと。
いかなるどん底にあっても
この世に出現した自分の命を
尊び全うすること。
人間は神が
完璧なかたちで
この世におくりだしたものであるから
自分の中にある生命力を信頼し
野の花のように
空飛ぶ鳥のように
装わず、
思い煩わず
自然のままの自分を
いきること。
まあ、イエスは素晴らしいカウンセラーだと
思います。
イエスがいかに自分の内面を
客観的に見て
自己検証していたかが
わかります。
だからこそ
人間の心理に精通した言葉を
吐き続けました。
イエスがいかにそうであるかは
あるときイエスが説法をしていると
姦淫をしたという女が連れてこられます。
そして連れてきたユダヤ教の律法学者が
「モーゼは律法のなかで、姦淫した女は
石で打ち殺せと言いましたが、
あなたはどう思いますか」と
明らかにイエスを試そうとして言います。
それに対してイエスは
「あなた方の中で罪のない者がまず
この女に石を投げつけるがよい」といいます。
それを聞いていた群衆は
ひとり去り、二人去り、ついにはイエスと女だけが
残されます。
そしてイエスは
「女よ、みんなはどこにいるか。
あなたを罰するものはなかったのか」と
聞きます。
すると女は
「主よ、だれもございません」といい
イエスは
「わたしも貴女を罰しない。お帰りなさい。
今後はもう罪を犯さないよう。」と
言いました。
人間は罪をおかしたことがない人間など
誰もいません。
ここでいう罪とは
犯罪ととかではなく
嘘をついたり
ごまかしたりの
ちょっとした
こころの間違いのことを言います。
人間にはそういう自分に対する内省の心がある。と
言う事をイエスは知っているのですね。
そして
イエスから
一度も罪を犯したことのない者から
石を投げろ・・・と
突き付けられらた時
人々はチャ―ンと自分の心の中に
向き合いました。
それが素晴らしいです。
自分を内省する力
自分の内面を検証する知的な能力
それがあるからこそ
他者を赦し
自分もゆるし
そして和解することができるのですね。
人間の中には
そういう
神の技がチャ―ンと内包されてあるよ・・・と
イエスは
人間を信頼したのですね。
イエスに関しては
当時、イエスが処刑されたゴルゴダの丘で
確かに、イエスらしい修行者と
あと二人の囚人が処刑されたらしいということは
わかっています。
ただ
イエスの言葉を
編集し、それを世界宗教まで高めたのは
パウロだといわれています。
イエスの言葉はいつも
わたしのこころの中の汚れを
浄化してくれ、さらに
善く生きようという原点へと
戻してくれる
宝石のような言葉です。
しかし
キリスト教となると
それはまた別の問題を孕んでいます。
キリスト教は
この世は唯一の神が一元支配するもので
異教徒を認めません。
だから
地の果てまでと
詩編で唱えられたいるように
異教徒を改宗させるべく
世界中に宣教師を派遣しました。
だから
この日本にも
はるばると彼らはやってきましたね。
今はそれほどでも
ありませんが
それでも
保守的なキリスト教徒は
今でも
イスラム教徒や
仏教徒に対する偏見や卑下があります。
アメリカの大統領選の
おおきな票田にもなっています。
また世界を”グローバル化する”というのも
欧米の人間の深層心理にある
世界の一元化でも
あると思います。
世界中でクリスマスが
祝われますが
日本の人々は
果たしてイエスの言葉を
どれほど知っているのでしょうか。
まあ
宗教として
それに依存したり
マインドコントロールされるのは
よくありませんが、
でも
ひとりの人間イエスが
命がけに
人の道、生きる道を説いた言葉として
聖書は優れています。
※キリスト教信者は、イエスを神だとしており
人間だとは思っていませんが、
私はひとりの求道者だったと
思います。
イエスは人間の限界を超えた
おおいなるものとして
神と言いますが
私は人間の自我をこえたものが
人間の中には
内蔵されていると
思います。
それは
神とは”はたらき”であると
井上洋治神父が唱えられたように
どんなに澱んでも
いつかは澄んでくる
その澄んだ水が
人のこころのなかには
あると
私は思います。
良かったら以前のブログに書いたことを
読んでください。
どんな人間にも
自分を取り返すちから
自分を厳しく見つめる力があり
時にそれは
自我を超越して
様々な奇跡的な事へと
導いていきます。
ただ
それは
イエスの言うとおり
自分の自我の感情を
或いは
自我の防衛をする抵抗的な感情を
乗り越えなければ
なかなかそこへと到達できない
狭き門です。
しかし
善く生きるために
そして
ほんとう満たされた善き人生を
全うするために
できたら
イエスの言葉のように
お互いを赦し
和解し
そして
こころの中の対立から
解放されて
カランカランのこころで
スタスタと
行きたいものです。
明日のクリスマスイヴは
美味しいケーキを食べて
そういう心の
リセットの日だと
私は思います。

by denshinbashira
| 2012-12-23 17:01
| 風のエッセイ!
|
Comments(2)
素敵です。心が洗われます。
0
また、ひとつ、目の前が見えてきました。イエスが死を受け入れる、同意として、そのことを赦す。そこに心の開放が生まれたんだな。これまでの罪、自分のそして他人の罪を赦し、ねたみや、うそ、ごまかし、よく見せようとする心を・・・捨て、捨て去るように努力し、今日を生きていこう、すたすたと。ありがとうございます。また少し見えました。

