クリスマスに・・・・イエスの言葉その4 |
イエスの言葉の〆を
書こうと思っていたのに
コンピューターのエラーが出て
つながらなくなりました。
が
遅ればせながら、書きましょう。
イエスがどうして”愛”のひとと
言われるかは、
彼が何度も言ったこの言葉からでしょう。
群衆の中にいた律法学者(ユダヤ教の律法に熟知した者)が
イエスに問いかけます。
「先生(イエスのこと)律法の中で
どの戒めがいちばん大切なのですか・・・?」と
イエスが答えます。
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして
主なるあなたの神を愛せよ。
これが第一のいましめである。
第二のいましめは
自分を愛するように
あなたの隣人を愛せよ。
このふたつのいましめに
律法全体と
預言者とが、かかっている。』
ユダヤ教の詳しいことは省くとして
イエスがその身を挺しても
伝えたかったことは、
細かい律法を守ることが
神を信じることになってしまい
形骸化して
形式ばかりに覆われてしまった
神への信仰を
本来の人間を幸福にするための信仰へと
戻すことであったと
思います。
だから
律法学者は”いましめ”でもっとも
”守るべきは”という
発想しかできません。
しかし
イエスは、律法の根源にある
神への信頼をとりもどすこと。
それは
神と真正面から向き合い、
全幅の信頼をむけ
愛することだと言いました。
そして
自分を愛すること。
それは自分のエゴを愛するのでは
ありませんよ。
自分を信じきり、
信頼しきり
自分のすべてを愛するのです。
それができてはじめて
自分の隣人を愛することが
できる。
愛するということほど
難しいことは
ありません。
自分を愛するどころか
いつも
自分を疑ってばかりいる人間のほうが
圧倒的に多いでしょう。
愛することは
自分の感情を愛することでは
ありませんよ。
また
自分の感情で
愛することでも
ありませんよ。
神の視点から
愛するのです。
自分のモロモロの感情は
おいといて
自分の利害を超えて
他者を愛することの
いかに
難しいことか。
神の前で
裸になった自分をさらし、
真っ正直に
神に向き合ったとき、はじめて
自分の姿が見えてきます。
神の前ではごまかすことは
出来ない。
つまり
神は鏡のように
自分を写します。
それは自分の美しさも汚さも
強さも弱さも
すべてが
映しだされて
自分のすべてを
神という鏡で見た時
その自分のすべてを愛し
受け入れることができてこそ
はじめて
他者をも愛することができるのです。
そういう意味では
愛することは
とても厳しいことであり、
律法を守ることよりも
はるかに
厳しいことです。
だからこそ
イエスはまず
自分がその姿をみせようとします。
更に
『お互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように
あなたがたも、お互いを愛し合いなさい』
と
言いました。
そして
最後に自分が十字架に架けられて
瀕死の状態でも
神に
自分を十字架に架けた人間を
赦すように言います。
『父よ(神よ)おゆるしください。
彼らは、自分達が何をしているのか
わからずにいるのです。』
わたしがあなたがたを
愛したように
あなたも
他者を愛しなさい。
人間はみな、同じように
こころの苦しみをもち
同じように
”わからずに”傷つけ合ってしまう
よわいものです。
人間はよわいものです。
だから
すべて自分だけの力で賄おうとすると
どうしても
自分の感情に捉われてしまいがちです。
その自分に拘泥する感情を
乗り越えるためには
神をという鏡に自分を写し
そののち
自分の感情をその神(大いなるもの)に
いったん預けます。
イエスはその
人間の力を超えるもの
自分の自我を超越するものを
神としたのではないかと
私は思います。
私は決してキリスト教を
否定するのではありませんが、
当時の人間の想像力の限界として
当然の事として
”人格神”の設定があり、
解明できえていない
様々な神秘と不明の中での
人間理解ですから
それはそれでいいと思います。
そして
人間が自我の限界を超えるために
一端、自我を放棄する手段として
超越的な”神”の存在を
設定したことで
神に自分をユダネルことで
人間が自分の煩悩から
脱出できる
或いは
苦しみから解放されることを
イエスは説いて廻ったと思います。
自分に執着し
自分の感情にまとわりつく
欲や不安の感情から
脱出できて、
はじめて
人間は自分も
他者も
受けいれる事ができます
愛することが
できます。
そして最後まで
イエスは
人間を愛そうとして十字架に
架けられました。
そのイエスの姿をみた人々が
イエスが死んでから
様々に気づきはじめ
その中のパウロこそが
キリスト教という
”宗教”までに昇華させました。
イエスのすごさは
常に自分の中の無意識の世界に目を向け
それを
言葉にしていったことです。
だからこそ
その、無意識の根底に流れる
人間の純粋性に
確信を得ていたのだと
思います。
ひとりの人間が
すべてを投げ打ち、
全身全霊をかけて
自分の言葉を吐き
説いて廻ったそのことは
重くて厳しいです。
『父よ(神よ)おゆるしください。
彼らは、自分達が何をしているのか
わからずにいるのです。』
わたしも
自分が何をしているかわからずに
多くの過ちをし
たくさんの人を傷つけました。
その自分を許しましょう。
そして
同様に
他者の弱さもあやまちも
赦しましょう。
クリスマスとは
そういう事を
教えてくれた人が
この世に生まれた日です。
彼も私たちと同じように
人間として
生まれた日です。

