新年、おめでとうございます。 |
70歳になったら
風がとおりぬけるような文章を
書きたいと書き続けてきました。
このブログという、
私にとっては
思いもかけない良き場をあたえられ
読んでくださる方に
励まされやく7年書き続けてこれました。
そして
今年の4月で私は66歳になります。
四捨五入すると70で
いよいよそのウオーミングアップへと
入ることになります。
人間として熟していきたいという
願望のもと
ずーっと自分を見つめ続けて
きました。
すべてのことは
起きるべくしておきる。
その
起きたことを
受け止め
受け入れ
そして
分析し、解決していく。
そのプロセスこそに
わたしという人間のデティールがあり
そして
全体があります。
そこに起きてきた
ねじれや歪みや
多くの思い込みから来る誤解を
解いてゆく。
しかしそれはほんとうに
大変な作業でした。
それは解いても解いても
さらに次から次へと問題が
湧いてきて
際限のない課題として
山のように
わたしの前に立ちはだかる。
65歳生きてみて
いきることとは、
かくも
厳しく大変な事だと
思います。
誰もが
この終わりのないような
格闘の中で
生きていると
思いますよ。
でも
いつも心を
立て直して
頑張りましょう。
さて
成熟していく自分とは、
成熟するということは
自分の中が詰まってゆくことでは
ありません。
自分の中がどんどん空っぽになってゆくことです。
その空っぽとは
空虚になってゆくという事では
ありませんよ。
自分の中にある
”対立軸”がどんどん
なくなってゆくことです。
自分の中の自我が持つ感情的な
対立軸が
一本一本抜けていくとでも
言いましょうか。
しかしその対立するものは
消える訳ではありません。
それは風景の全景を自分の中に
すっぽりと抱きかかえられることのように
おもいます。
尖った険しい山も
底冷えのする谷底も
澱んだ沼も
清流の流れも
豊かに実る平野も
殺伐とした荒野も
すべてが
対立せず
そのままそこに
ある。
つくづくと
ひとが生きるということは
この風景を網羅していくことだなあと
おもいます。
それぞれ格闘し
超えていった風景が
荒立たず
まるで
はじめからそこにあったような
穏やかさで
わたしの中に
ある。
やがてそれは
紙に沁みこんだ
墨絵のよう私と一体化し
やがては
わたしの死と共に
水に溶けて
消えてゆくであろう。
人間は
役割を役割だけで生きようとすると
それは、とても殺伐とした関係しか
産みません。
しかし
役割の先に、人々の安寧と幸福を目指すなら
その役割のなかで
水を得た魚のように
自分がいきいきとします。
わたしの役割は
わたしが
”どのようになって死ぬ”かであろうと
思っています。
どのように死ぬかは
どのように生きるかで
そう思うと
やはり
あの風景を生きぬいて
自分が
空に達することだなあと
思います。
どうか
そうなりますようにと
祈願して
本年も
よろしく
お願いいたします。
『伝心柱マガジン』
今年も宜しくお願いします。
芯をもてなすがままに・・・
柳のように!!
昨年終わりから年始にかけて、いろんなことがあり、また気付きを得ました。
体調がしばらくすぐれず、まずはそちらから回復したいところです。
インターネットをみるのが辛かったときでも、「遺言」ブログはいつも楽しく拝読しております。
年明けからの自我についてのブログも、心待ちにしております。