タケシ氏の眼、その2. |
ここまで来るのは
大変な努力だったと思います。
もしかしたら
彼は逃げなかったのかも
しれませんね。
人間はすべて
自分に起きるべきことが
起きてきます。
特に自分にとって厄介なことや
人間関係に於いての
不幸な事
自分が深く傷ついてしまう事
そして失敗や
挫折がなどが
それです。
鬱もそうですよ。
その起きてきたことから
逃げないで
すべてが
自分から起因している・・・という
自覚がある人は
苦しみながらも
そのことを解決していくために
深い考察と
エネルギーを使いますが、
たいがいの人は
自分に起因があるとは
おもいたくないので
相手を非難したり
責任を転嫁したりします。
しかし、
自分の内面を見つめる
高い知性や
洞察力や内省力がある人は
あえて、自分に刃を向け
自分を解析していきます。
なぜなら、
そうすることで
逃げることより数倍も価値のある
情報、
自分にとっての質の高い、価値の高い
人間情報を得られるからです。
もしタケシ氏が
表現者としての自己を意識化するなら
それはとても大切な事であり
不可避的に自分が直面しなくてはならない
表現者としての課題ですからね。
タケシ氏の場合
単にお笑い芸人という範疇から
はみ出してしまったのは
彼の中の人間に対する追及が
あったからではないかと
思います。
俺ってなんだろう・・・?
自分ってなんだろう・・・・?
そして
人間とはいかなるものか・・・。
それらの解答を見つけだすには
自分という素材を解析する。
つまり
常に自分を追究しては
外部社会と照らし合わせて
答えを見つける
外部社会とは
自分の内面以外のすべての世界を指します
自分の肉体を置いているこの世の
自分以外のすべてです。
外部世界と自分との中で起きる
すべての現象こそ
自分を知りうる解答としてある。と
世界を認識しはじめて、はじめて
自分を通して
人間の普遍性が見えてきます。
つまり自分の内面が
外部世界を通して映し出されいる。
そういう風にいちど自分が外に晒れて
起きてくる外部世界での”反応”を
見る。
すなわち
自分を客観化させる作業を通して
はじめて
自分固有の内面と
外的世界との通路ができ
鏡のように双方が映し出されたとき
そこに抽象化され、
普遍化された”人間像”が
顕れてくるという訳です。
タケシさんは
その方法として
お笑い芸人の芸に自分を放出する、
映画の中に自分を放出する、
絵画の作品の中に自分を放出してゆき、
それら外部世界に投影された自分が
あぶりだされて、
尚かつ
その自画像の後ろには
人間の普遍的なものが
影として
見えてきた・・・ということでは
ないでしょうか。
勿論そこには
自分をごまかさない・・という
厳しい自己検証が
必要です。
自分のなかの不安や
攻撃性や怒りや怨念や
自分にとって都合のわるいもの
みたくないものもすべてを
突き離して
冷静に凝視する・・・・と
いうことが
逃げないということです。
これは一見、とても厳しいことに
思えますが
しかし
ほんとに
自分という人間を愛するなら
自分の人生を実り多きものに
したいなら
とても大切なことです。
それは
自分のすべてを見つめ
受けいれ
全肯定する・・・という
自己世界を
抱きしめることでも
あるんですからね。
タケシさんがもし、
自分の中にある
ほんとうの自分を求め続けたとしたら
おそらく常に
それまで築きあげた”自我”との
すさまじい闘いがあったと
おもいますよ。
人生をかけてね。
自我というのは
物心ついたときから
自分とは違和を感じさせる世界に対する
或いは
自分及び
自分の生命を脅かす外部世界へむけた
”傾向と対策”の自意識です。
それは、成長していく時間軸の中で
親や世間から刷り込まれた
たくさんの間違った情報や
優越感や劣等感やコンプレックスや
ネガティヴな感情などの
”思い込み”が
纏わりついている
もう一人の自分意識です。
それが、間違っているが故に
或いは自分の本来の”在り方”ではないために、
ことごとく外部世界と摩擦や衝突を
起こすのですね。
明日はこの自我について
書くことにします。
自分との戦いとは
この自我との戦いです。
でもねえ、
自我のなんと強固な事でしょう。
でも
そここそ
うち父ちゃんの大好きな言葉
創造的破壊・・・が必要なんですね。
では
明日ね。
『伝心柱マガジン』