タケシ氏の眼、その3 |
自分と自分以外の世界との間で
自分が思い込んでいる
或いは認識している
自分像です。
それは純粋な自分ではなく
他人から見て類推した自分像や
生育過程で
親や周囲の人間からバトンされ
注入されたた価値観や
コンプレックスなど
人間に関する
或いは人間が生きることに関する、
社会に関する、
様々な
間違ったことを事を
纏ってしまっている
自分像です。
その纏っているものが
ほんとうに
自分にふさわしいか
或いは必要であるかは
かなりあやしいもので
自我の
纏っている、
間違っている事象は
その人間が生きていく過程で
様々なトラブルとして
起きてきます。
だからトラブルや
自分が行き詰まることや
自分が消耗すること
深く傷つくこと
そして鬱になり
エネルギーを喪失することも
すべて
それらは
ほんとうの自分に気づく
チャンスなのですね。
そして
サインなのです。
その時
逃げてしまい
それらを他人や社会や
集団のせいにしてしまうと
せっかくのサインもチャンスも
逃してしまい
その人は
ずーっと
自分にとっては必要のない自分
本来の自分ではない自分を
生き続け
最終的には
こころががらんどうのまま
人生を浪費してしまいます。
さて
では自分がほんとうに
自分らしい自分を生きているか
いないかをみつけるには
どうしたらいいか。
それはね、
今の自分の内面をよーく見渡して
自分が無意識的にしている
自分の
”優先順位”を
点検することです。
自分は何を
いちばん価値があると思って
生きているか・・・を
点検することです。
例えば
ずーっと優等生で来た人は
他人から劣等生とみられることに
怯えて、常に優等生であろうとし
そこに価値をおき
自分の行為や思いをいつもそこに
収斂させているでしょうし
この世の中はお金だとか
金持ちだとかと
思い込んでいる人は
いつも
そういうものを物差しにして
他者や世の中を見ているでしょうし
逆に
失望感、猜疑心や
絶望感を優先している人は
いつも
自分がそう思えるように
自分を失望や
猜疑心や絶望の方へと
舵を切り、
ああやっぱりそうだ・・・と
納得します。
ことわっておきますが、
猜疑心というのは
他人に向けていますが
実は自分を猜疑しているのですからね。
そして
自分の中にある
優先順位こそ
実は
自分を脅かしている事々なのですぞ。
だから自我は
自分が脅かされないようにと
いつも自分をその優先順位に従って
行動させてしまいます。
そうして
自分と外部社会との
調整を図っているのです・・・が
その外部社会というのも
自分が思いこんだ価値観と
優先順位が投影されたものですから
まあ
まったく生産性のないことを
やっておる・・という訳です。
もうお分かりですね、
自我とは
自分の生命を保全するための
装置としての
意識です。
こういう風な自分になれば
生き延びていける・・・と
生育期に自分が思いこんだこと。
こういう風な自分だと
親や周囲の人間との摩擦を避けられると
思い込んだ自分像。
或いは
親の姿から
こういう風に生きればいいんだなと
学んだ自分像。
さらに
親のコンプレックスや
歪みから
バトンされてたもの。
まだまだ様々なケースがあるでしょう。
しかし
それは
自分の命が自己保全するために
そうしたほうがいいと
価値づけて
優先順位にしているだけで
それらが
ほんとにそうなのか
外部社会との関係でも
有効なのかは
必ず明らかにされていきます。
自分の意にそい
自分の求めるもの
自分の自然性にそったものか
そうでないものは
次々に崩壊していきます。
しかし
厄介なのは
それらの優先順位にしているものの裏に
感情が張り付いていることです。
感情とは
自分の中の不安や怯えや怒りや絶望です。
なぜ自分が
自分本来の、或いは自分の自然性に基づいて
いきるのではなく
他者のものを身にまとって生きてしまうかは
そうしないと
恐ろしい
或いは不安だからです。
ほんとうの自分に気づく
自分の実感に基づいて
生きるためのの
自分との戦いとは
この自分に張り付いてしまった
感情との
戦いです。
自分が自分らしく生きようとすることに
強烈にブレーキを掛ける
感情との
戦いです。
ですから
自分が自分の優先順位を崩そうとするとき
その不安や怯えの感情が黙々と
頭をもたげてきて
強烈に
抵抗するのです。
感情が強烈に抵抗するとは
起きてきた出来事
トラブルや厄介なことや
自分が消耗する
自分が傷つくなどの
出来事を
自分が引き受けたくない
他人のせいにしたい・・・という
強烈な願望と
抵抗です。
勿論起きてきた出来事の
半分は相手や社会に原因があります。
そしてたしかに
半分は自分にあります・・・が
しかし、その相手を引き寄せたのは
自分ですよ。
社会をそういう風に
認識してしまうのは
自分の自我ですよ。
私などは
そういう時
なぜ、私はこのひとを
ひきよせたのか、
或いはこの状況を
創り出したのか・・・と
自己点検します。
わたしにとっては
自分が幸福になるための
最大のチャンスですからね。
そして
人間は
自分に必要のない人には
興味をしめしません。
自分に必要のない人には
近づきませんし
スルーしてしまいます。
すべての出遭い
すべての出来事は
自分の内部が
何かしらの要求をもっているから
そうなるのです。
必要な者どうしが
出遭います。
そして
その人間が
気づかなければならないことが
現象として
起きてきます。
その時
抵抗する自分の感情を
大きく正視(静止)し
そこから自分への気づきへと
引導していくものこそ
自分の脳の前頭前野のはたらきです。
理性の知恵ですね。
感情については
以前に書きましたように
人間の進化に従ってあるワニ、ネズミ、 人間の
三つの脳があり、最近はさらに前頭前野という
もっとも優れた脳があることも明らかになってきました。
1ワニの脳・・反射的に身を守り攻撃しようとする
獰猛な本能の脳
2ネズミの脳・・獰猛な本能をコントロールしようとする
すこし知恵のある脳
3人間の脳・・これこそ、人間が到達し獲得した理と知の
脳です。
1と2の脳は
本能の脳として人間の情動(感情)を
支配しています。
この脳は本能の脳ですから
すごく強く強固です。
この脳、
つまり感情が発火しだすともう
それに手が付けられず
前頭葉は沈黙して
ブレーキがかかってしまいます。
つまり
感情に捉われた人間は、
自分の感情以外が分からなくなって
しまうのですね。
思い当たるでしょ!
自分に気づく・・・ということは
この1や2の脳たちの怯えや怖れを
自分の脳の感情を
乗り越えないと
できないのです。
乗り越えて
自分を冷静に
客観的に見つめ
そして
感情を乗り越えて
敢えて
うけとりたくないものを
受け取ってゆく。
受け取りたくないものの中に
宝物があります。
自我が思い込んだことの裏には
この感情の怖れや怯えが
張り付いてますから
なかなかそれを修正したり
捨てる・・・ことができない。
だからこそ
自分に気づいてゆくには
決意や
覚悟が必要なのですよ。
そして
それは
今までの
自分の自我が
崩れてゆく過程でもあります。
自分が後生大事に守っていた
自分の砦が
壊れていくのですから
たいへんな事です。
優先順位をつけていたものが
実は
本来の自分にとっては
厄介なゴミだった…という事ですから、
なかなか受けれ難いことでしょう。
だからこそ
よーし自分を壊して
生まれかえっちゃる・・という
決意が
必要なのです。
カウンセリングでも
もう
その人が崖っぷちで、あとがない、
どうしても救い出さねばと
わたしが思ったときは
私は
その人の強烈な自我を叩きます。
叩き潰します。
その自我の砦
自己防衛の砦
猜疑心の砦を
自意識のプライドの砦を
叩きつぶします。
その人も
心の隅の方では分かっているのですが
どうしても
自我の砦を壊すことができなのです。
だから
観念して
自我の砦が崩れ落ちた瞬間から
そこに新しい変容が起きてきます。
すべてが壊れた時
はじめて
そのひとの
素直でやわらかいこころが
顔をだしてきます。
自他の分離とともに
理性が働きだし
前頭葉が発火しだします。
自我の感情の呪縛からの
脱出が始まったのですね。
自分の殻から出られず
もがいていたのを
一刀のもとに
その殻を切り開くような
感じですかね・・。
まるで
桃が割れて
桃太郎がでてきたような
感じです。
これがカウンセリング理論の「死と再生」です。
古い自分が死に、
新し自分が生まれてくる。
私はあたらしい自分ではなく
もともとあった
自然な自分が
気の澄みきった自分が
顔を出してくるという風に
思っています。
今までにも
そういう人々と
出遭い
感動いたしましたよ。
ただ、
これがねえ、
中途半端な壊れ方だと
また
もくもくと
自己防衛や
自尊意識や
猜疑心が
顔をもたげてきて
ほんの少しの修正だけで
今までの自分と
新しい自分を調整しようとします。
この調整する・・というのが
曲者でね・・・・・苦笑!
なかなか新生な自分がでてきません。
そうだと
まだまだ
感情に脅かされて
客観性が育たず
自分の世界の全体も
外的世界の全体も
見えてきません。
それほど
自我で思い込んだ世界と
そこに張り付く負の感情が
強烈だという事です。
自分の自我が優先にしていることは
果たして
ほんとうに自分が望んでいるものなのか・・・。
それが見つけられない人は
様々にさまよい
依存していきます。
それは
自分が自分の本心に添って
生きていないからですよ。
先日丸善にいったら
依存症について
様々な依存症の症例が
本に書かれていました。
たくさんあるんですねえ…きょうびは・・?!
依存症のひとは
まず、自分の自我の優先順位を
点検してみて
自分を脅かしているものに
気が付くといいですねえー。
さて
昨日のテレビで
たけし氏が
「本当は怖い家庭の医学」という番組を
やっているらしいですが、
題だけでも
大衆を不安の中に引きづりこもうという
意図があります。
私は題を見ただけで
こういう番組は見ません。
これもねー
たけし氏がそういう不安や怯えを
持っているから
そういう番組をやるのですよ。
不安に怯える自我は
自分が孤立しないように
自分の仲間をふやそうとして
他者を自分と同じ
不安の中に連れ込もうとします。
もし
たけし氏が
ほんとうに
自分の自我と闘い
自我を崩壊させ
新しい自分へ新生したときは
おそらくこういう番組は
やらなくなると思うし
政治への介入の番組も
やらなくなり
ひたすらお笑いの”道”を
極めていくと
思います。
それと
身体にとって最高の予防は
不安を予防することなんかでは
なく
楽天的に
ノホホンと生きることですよ・・・!!
身体と脳に任せて!
感情については
まだまだ
書く必要があるなあーとも
思っています。
まあー
おいおいに
書いていきましょう。


野焼きで焼いた
陶器の仏さんです。
頬杖ついて・・・思惟の中でしょうか?