感情について・ワニとネズミからの脱出! |
感情はとても大切ですが
同時に
感情はとても厄介です。
特に記憶の中の嫌なエピソードと
結びついている感情は
瞬間的にスイッチが入り
あっという間に
脳の辺縁系にある扁桃体を興奮させ
暴走します。
感情が暴走しだしたら
もう
理性の前頭葉もお手上げで
感情はどんどん”エゴ”の中へと
突入していきます。
そして被害者意識と自己憐憫に
捉われた自我がもう
自分しか
見えなくなります。
私は感情の起伏の激しい親に育てられ
その剥き出しの感情をぶつけられ
更にその感情を暴走させるスイッチは
わたしの中にバトンされ
埋め込まれてしまいました。
自分でも気が付く
もう
あっと言う間に
傷ついた感情にスイッチが入り
瞬間湯沸かし器のように
たちまちのうちに沸点に達した感情が
爆発し
家族や友人たちに
たくさんの迷惑をかけたと
思います。
一方幼児の時から音楽をしていましたから
音楽や芸術の中に浸りこむ自分は
たくさんの音楽や絵画や文学などで
胸が締め付けられるような感動や
陶酔などで
どれだけ心をなぐさめられたか
しれません。
私はホントにもう
いままでの人生のほとんどを
この感情との格闘に費やしたと
思います。
さて、特に暴走する感情と言いますか
※不安や怯えがあるからこそ
その反動で攻撃的な感情が暴走します。
不安や怯えの感情を司るのは
大脳基底核と
辺縁系の中にある
扁桃体で、
それが
記憶装置の海馬によって引き出された
記憶の中にある
ネガティヴなエピソードが結びついたとき
感情が暴走していきます。
なぜなら
海馬によって側頭部から
取り出される記憶は
その生命が重要な危機であると
認識したエピソード記憶ですから
それに
連動して、
感情が発火していくのです。
その生命が危機を感じたエピソード記憶というのは
幼児や生育期に
その人間が他者からくわえられた
自分を追い込むなんらかの
感情で、
その自分の危機の重要度に従って
長期記憶として
側頭部に保管されている記憶です。
例えば激しく親に怒られたとか
こういう行為をしたら
親や大人の怒りや
顰蹙を買うのだと
思い込んでしまったことなどなどです。
大人にしてみれば
なんてことはないことも
幼児にしてみれば
自分が脅かされたと思う場合は
それが強烈な記憶として
長期保存されるというわけです。
ただそれは
心理的痛みとしてあるですが
それが自分の前頭葉の自我に書きこまれている
人間不信や
人間認識と重なってどんどん
エピソード化されて
前頭葉の認識になっているのです。
※この脳の説明は未熟な私には
とてもうまく説明できませんから
それぞれの方が自分で
研究してください。
これからの時代は
脳に関する知識が
とても重要になると思います。
だからカッカくる人や
瞬間湯沸かし器のような
怒りの人は
それだけ
たくさん不安や怖れの傷
そして怒りの裏には
自分の無力感と焦燥感がありますから
それだけ絶望し
怯えている人という事ですね。
怒りの人は
恐ろしい人ではなく
むしろ単純で
深く傷ついているひとと
いえます。
また昨日書いた
調整型の人は
感情をアダルトで
バランスを取ってしまいますから
感情が浅く時に
感情の通路が詰まってしまい
感情が感じられなくなることもあります。
アダルトチャイルドの人などは
こころの奥のほーに
感情が引っ込んでしまい
本人は
なんとなくあるんだけど
痒いところに手が届かいないように
感情が上って来ない・・という人も
います。
感情過多の人も
感情を抑圧している人も
そのもとになっているのが
その人の
自我の人間観です。
脳の基底核と辺縁系という
反射的な情動の
その反応を増幅させて
必要以上に感情的に興奮させている原因は
前頭葉が思いこんだ
”人間観”にあります。
その人間観を修正するためには
たくさんの失敗や挫折をとおして
自分の中の人間観を
変えていく必要があります。
自我というのは
自分が”思い込んだ”
自己認識です。
しかし
先日も書きましたが
そこには
たくさんの
誤った情報に基づいた
自己認識や
人間観があります。
必要以上に感情的なってしまうひと
逆に
感情を押し殺している人
さらに
いつも感情を操作しバランスをとっている
調整型の人も
自分の思い込んだ人間観や
社会観を
一度、ご破算にして
ゼロから
立ち上げる必要があります。
それがカウンセリンでいう
「死と再生」
古い自分の死と
新しい自分が生まれる・・ということです。
そして
自分の自我の書きこみを修正するには
自分が深く傷つく
自分が失敗する
自分が挫折する
鬱に落ち込んでしまう
などなど
自分が深く自分が打ちのめされる時こそ
自分の思い込んでいる
人間観を
洗い直すチャンスです。
勿論そんなに簡単にはいかないでしょう。
しかし
自分に起きてくることは
すべて
自分に必要なことが
起きてきます。
そして
もっとも重要なことは
情動の源である
脳の基底核と辺縁系の暴走を
阻止するのは
前頭前野です。
つまり
人間としての
知恵
理性の働きが
必要なのです。
断っておきますが
短絡的に
理性でコントロールすればいい・・・なんて
思わないでください。
そういう短絡が
アダルトチャイルドや
調整型人間を作ってしまうのですから・・・・。
そうではなく
知性と理性を持って
自分の中にある
人間不信を
猜疑心を
追っ払うのです。
つまり
自分の自我の中にある
汚れ
あやまった人間観を
追っ払うのです。
なぜなら
感情が暴走し
爆発するのは
感情が内攻し
硬直するのは
自分が自分を信じられないからです。
※自分を信じられないからこそ
人間不信や猜疑心が
自分の内部から
自分を脅し、囁き続けるのですぞ!
人間の脳には進化の過程としての
相手を
否定する・・・・ワニの脳
疑う…ネズミの脳があるため
瞬間的に、そういうスイッチが入ってしまいます。
それは生命を保持するための
防衛のスイッチです。
しかし
それを超えて
人間どうしが共生していくために
前頭葉、前頭前野という
知的で高次な脳も
人間は獲得してきました。
だからこそ
私たちは
ワニもネズミも超えた
人間と人間の関係を
創る必要があります。
いつも人間を疑い
他人を疑い
警戒ばかりする・・ことは
とても次元の低い生き方だと
思いますよ。
人間不信や
猜疑心は
他者に向けて発せられているように
見えますが
実は
自分を疑い
自分を信じられないことを
他者に投影しているだけです。
そんなもの
後生大事に抱えていないで
さっさと捨てたらどうでしょうか・・・・!!!
命が
人間が
輝いて発火するのは
そういういろいろな
マイナスの事があっても
それに負けないで
とことこと
未来へと
未知へと
歩きながら
自分にはないことを知っている人間や
自分にとって、
オモロイことをしている人間や
自分がはっとするような何かを
与えてくれような
自分のインスピレーションが発火するような
つまり
自分の命が一瞬に輝き
或いは
どんどん意欲が刺激され
ワクワクするような
人々や
事象との出遭いを
求めて生きることです。
élan vital(エラン・ヴィタ-ル)
生命が自分の未知なる世界とであい
ジャンプして発火すること
ベルグソンの言葉です。
”創造的進化”
これも
ベルグソンの言葉です。
自分がわくわくすることも
何か未知なるものや
自分の中のインスピレーションが
ヒラメいて
自分がジャンプする・・という瞬間も
また
そこに感情の電流が走るでしょ。
そのためにこそ
前頭葉を使い
前頭前野を駆使して
自分の不安や怖れや
怒りや敵意を
昇華させていく。
そうはいっても
もう身体の神経系統に
刻印された感情の通路は
なかなか
言う事を聞きませんね。
頭でわかっているけど
でも
感情がそうなってしまう・・・・。
明日はそのことについて
書きたいと
思います。



『猜疑心というのは他人に向けているが
実は自分を猜疑している。』
『自分を信じられないからこそ人間不信や猜疑心が自分の内部から自分を脅し、囁き続ける』
とは、どういうことなのでしょうか?
自分のなかの間違った人間観や、汚れを追っ払うことと、自分にOKを出し続けて信頼することが、なぜ、他人への信頼になるのか。。
他人への人間不信とは、その『他人』という人間に、自分という人間も入ってるけれども、都合良く欠如し、全て他人へ投影されてるということでしょうか?
ご教授ください。
よろしくお願いします。

よろしくお願いします。