シリーズ・女性たちへ、自分のコンプレックスが自分を脅している! |
タレントの○○〇香さんなどは
ほんとうは顏や容姿に対する
もうすごいコンプレックスが
あるんだよ・・と話したら
びっくりして目を丸くしていた!
容姿にコンプレックスがあるからこそ
そこへとアプローチしていくのであり
そこで優越感を味わうために
コンプレックス競争に
勝うとし自分磨き、成功しようとする。
しかし
容姿、特に顔には
その人間脳の内容が
そのまま表れるから
そこが磨かれていないと
やはり最後は洋服を脱ぐ方向へと
行くしかない。
逆に内容のある素敵な女性ほど
洋服を着て勝負する!
例えば、顔や容姿にコンプレックスがある人でも
人間は内容こそが大切だと
わかっている人は
容姿のコンプレックスがあっても
そこでちゃんと知性とのバランスがとれるから
ことさら顔や容姿へと
突っ込んでいかない。
人間はほとんど無意識で生きていることは
もう何度も書いたが、
本来の自分の無意識を修正しなければならないときに
意識、つまり前頭葉に登場してもらい
意識的に自分を修正していくが
しかし、その修正がほんとに必要かどうかは
はなはだ疑わしい!
人間のコンプレックス(心的複合体)や劣等意識は
無意識に潜む自画像で、それを
受けいれられない場合、意識はその逆さまに
働いてしまう。
だから、コンプレックスや劣等意識が強ければ
強いほど、
例えば、自分は美しくない・・という」無意識が強ければ
強いほど意識は
反対に
私は美しいと自分を擬装し、
それを証明し、自分を納得させ、
安心させるために、
そこへと自己存在の価値をおいて
突っ込んでゆく(努力する・・ともいう・・笑)
しかし
自分は美しくない・・けれど
人間はそんなことばかりではなく
もっと高次の内容を持つことや
そういう一元的な価値へと
自分を置きたくない・・という
知的な上昇がある人は
そこで
バランスがとれて
そこそこにそれを取り扱って生きている。
顏や容姿だけでなく
自分の感情に起きてくる
様々なコンプレックス(複合的な心理)
つまり
自分と外部との間に発生する
本来の自分と違和があったり
そういう自分像では
いけない・・と思い込んでる心理や
自分は劣っているという劣等感は
マチガイなく、
自分が
そう思い込んだものに過ぎない。
それはほとんどそういう確証も
実体もないのに
そう思い込んでいるに
すぎない。
自分もそう思いのだから、
きっと他人もそういう風におもっいるに違いないと
勝手に自分を決めつけている。
つまり自分の中に
対立するふたりの自分を
作ってしまっているのです。
問題は
それが
本来の自分とは対立状態にあり
その対立心理を抱え込んで生きているから
常にその対立に自分が
曝され
脅かされて
しまうのです。
つまり
コンプレックスとか
劣等感などは
自分の中で対立する
もう一人の自分が
本来の自分を他者と比較して
脅しているに
すぎないのですよ。
いいですか、
脅しているのは
自分なんですぞ!
他者ではありません。
自分の中にそういう対立が多いほど
或いは大きいほど
その人はコンプレックスや
劣等感で悩むのである。
じゃあ
その対立を少なくしていくとか
思切って失くしていけば
劣等感やコンプレックスも
消えていくのではないか・・・???
そうなんですよ!
所詮人間は自分以外の人間に
対して興味を持たないものです。
しかし
おかしいことに
自分がどう思われるかには
最大の興味を湧かせ、
砕身を
図る!
おかいしねえ~!
そして
その興味と感情と
自分のローカルな情報とで
自分の無意識をいじり、
つまり
ありのままの自分を否定し
対立を起こしてしまうのです。
じゃあ聞きますが
あなたが、この人いいなあ~!
スキだなあ~!
更に
素敵は人だなあ~と
思う人に対する
あなたの判断は
美人でイケメンの人だから・・というところに
ありますか・・?
まあそういう人も
いるでしょう・・・けれど
ほとんどの人は
違うでしょ!
ちゃーんと相手の内容や
その心の中を見ているでしょ!
まあ、軽薄な人間ほど
相手の上っ面とか
身に着けているものしか
見えないものですよ。
そして女性たちに、
いい男は決して
女性の容姿を見ているのではありません。
勿論
男はそういう視覚的な刺激を
強く受けて発情しますから
そういう面も
あるでしょう!
しかし
内容がない女性を相手にすると
もう
退屈で、すぐに飽きてしまうでしょう。
それは女性だって同じで
内容のない男は
つまらないでしょう・・・。
最後にでは
どうしたら
自分の中にある
対立を少なくし
失くしていけるか。
それは
いつもいっているように
自分に優しく
ありのままの自分を
そのまま
これでよし!・・・と
言ってあげることです。
そのまま受け入れてあげることです。
それができない人は
朝の祈りノートに
「ありのままの私をうけいれることが
できますように・・・」
或いは
「ありのままの私が
素敵なんです・・・」と
書いてください。
毎日、毎日、自己暗示を
続けてください。
そう思えるように
なるまで。
そして
ほんとうに人間を見る眼を
磨くことです。
そうすると相手の
その人の中にある
透きとおったものが
見えるようになります。
勿論澱んだものも
見えます。
しかし
その澱みを越えて
透きとおったものは
みえるんですよ。
それは
自分が
自分にやさしく、そして
自分の中の対立がどんどん消えて行き
自分の中の抵抗がなくなった時
すーっと水平に素直に視線が
相手の中を通ってゆくからです。
それは同時に
透きとおった自分があり
その自分の目があるからです。
対立は澱みです。
自分の中の対立で
自分ををがんじがらめにしている・・それが
コンプレックスと劣等感の正体です。
本来はコンプレックスも
劣等感も
全く必要ないものです。
そんなことに
惑わされるなんて
愚かでしょ
ツマラナイでしょ!
ぜーんぶ、自分がしていることですよ!
自分を好きになろうね!
『伝心柱マガジン』
昨年の11月21日の「人を愛するとは、”中”が見える。」
の続きが気になっていました。
今日の 「人間を見る眼を磨くことです。」という書き込みを
読み、やはり続きが知りたい!と思いコメントさせて頂きました。
どうか、お時間のある時に「人を愛するとは、”中”が見える。」
の続きを教えて頂けないでしょうか?
宜しくお願いします。m(__)m
そして、いつもありがとうございます。
強迫観念、、ということでしょうか?
強迫観念は、無くならないと、加藤諦三さんの本にあったのですが、どうなのでしょう?私は自分的には、最後の砦だとおもっています。
これが無くならなかったとしても、例えば、依存から抜け出せたとか、自己肯定感がつよくなったとか、または、固定観念が取れたとか、、、ほかのことが良くなれば、、じゅうぶんに補えるのかなあ?とおもったり。。
なおらないと言われるのであれば、諦めるのも一つの手かなあ、とおもいます(^^;
それは、自分を深く掘り下げて考えるという事を放棄した、まさしく”依存で”です。物事は深く複雑です。人間のことはなおさらです。まず、自分が自分の事を軽く扱わないで、もう少し緻密に観察し、考える。その中に答えがあると思います。