すべて私が悪い その8、私の世界は、こんなにやさしい・・・・? |
やはり
良くも
悪くも
他者との出会いだろうなあと
つくづく思います。
そして
その出会いの中から
何をつかんでゆくか。
また
逆に
いっそう自分をディスカウントしていく人もいるが、
分岐点は
まず、自分にやさしいかどうかだと
思います。
自分に優しくない人は
熟してゆけません。
このブログを読んでいる人は
まずは
自分に優しいまなざしを
向けてくださいね。
カウンセリングとは
内面的な問題を抱えた人を
心理援助することだが、
人間のことが
分かれば分かるほど
内面の奥に広がる闇のふかいこと。
また
自分の内面に立ち向かう人間が
内面のドアをあけることに
常に爪先立ちの怯えや
躊躇があり
まず、内面のドアを開くまでに
そうとう
時間がかかる。
多くの人はまずは、
そのドアの周辺を
何度も何度ウロウロしてしまう。
そして
ついにはドアを開けきれず
周辺をさまよっただけで
終わりにする人も
たくさんいる。
ドアを開けても
そこからの闇へ進むには
時間がかかり
その人間の心の時が熟するのを
待つ必要がある。
その人にとって
そこは未知のせかいであり
ただ、手がかりは
自分が苦しいということだけだ。
ただね、あけてしまうと
そこからはもう
その人のたからものが
ざくざく出てくるのですが・・・!
そういう人々を
心理の知識と経験を
いかしながら
カウンセリングするのだが、
道は遠くて
険しい!
時間がかかります。
そういうカウンセリングの状況を
考えていたとき
人間の心の問題は
とうてい
1時間なにがしで
何回かのカウンセリングなどで
解決できるのだろうかという疑問が
湧き上がってきた。
まあそれなりの
対処的な回答を見つけ出し
一時的な解決はつくであろうが
しかし
その人間が自分の足を大地に踏みしめて
自己解決をしてゆくまでには
自己がしっかり立つまでには
圧倒的な肯定の連続の支援と
その心が開いてゆくプロセスの時間軸を
長期にわたって、支援する必要があると
私は思います。
つまり
最低は
何年間かの長期の設定が必要なように
つくづく
思います。
その圧倒的な肯定を
どうしたら
そういうことが可能なのかな~と
考えるにつれ、
私自身は
カウンセリングという
枠内ではなく
カウンセラーとクライアントという枠を
いったん取っ払い
単に
ひとりの
人間と人間が出会う・・と
いうことなら、
私の知識と経験が
役にたてるかもしれないと
思い
今に至っています。
多くのひとには
出会えないけれど
私に辿り着いた人だけには
全身でその人と向き合い
時間と年月をかけて
その人が自分で熟して行くのを
サポートする。
つきるところは
その人と私との
人間として向き合うということ
人間的な付き合い、だという
結論を私はだしました。
そして
その人については
私はなにがあっても
全肯定すること。
はじめから
まるごと受け入れる。
そのとき
その人には見えていないが
私には見えている
その人の総体を
できるだけ
じぶんでつかんでもらうまでは
全力で向き合うことに
しました。
もともとカウンセリングが必要なのは
その人が自己世界と
”出会っていないこと”に
多くの原因があります。
すべての人間は
自己世界の中で生きている。
自己世界とは
その人間を成立させている
たくさんの
その人らしいオリジナルな要素が
綴れ織りのように
織られている世界で
そこには
その人間の様々な要素や
欠片が
キラキラしながら
交叉し
絡み合い
そして模様となって
その人間を成立させている。
にも
かかわらず、
人間はおかしいことに
自分の部分や断片しか
見ない。
自分の模様や見えても
自分の生地は
見ない・・・という
心理マジックのなかに
陥っている。
その大きな理由のひとつは
人間が集団でしか生きれない・・ということ。
もうひとつは
一人前になるまでの
養育期間が長すぎるということだと
私は思っています。
集団で生きるためには
絶えず他者からの介入を
受けざるをえないし
養育期間が長いことは
当然養育者の意識データーに
汚されるからだ。
まあ
そういう小難しいことは
学者達にまかせるとして、
人間と人間が出あうということは
良きにつけ
悪しきにつけ
であった人間をとおして
自分の総体に
気づいてゆくことの
過程です。
その
”気づいてゆく”ということが
もうー
いちばん大切なのですね。
断っておきますが。
ダメな自分に気づくのではありませんよ。
素敵な自分に気づいてゆくのですぞ!
自分の中にある
純真なもの
純粋なものへ
やさしいまなざしを
むけるのですよ。
自分の総体が見えていない人間は
その見えない不安定さのなかで
怯え
恐れ
そして
警戒し
攻撃する。
しかし
自分の総体が見えてくると
自分が思い込んでいるものの正体や
自分をおびえさせていることの
実体や
さらに
じぶんと他者との
”関係”
自分と
外部世界との
”関係”が
見えてくる。
その関係のなかで
自分が織ろうと思っている世界は
決して
ゴワゴワした
世界では
ないはずですよ。
もともと自分の生地は何色で
どんな質感を持ち
自分と他者とは
どんな色の糸で
どういう風に綴れ織られ
どんな模様になっているか
それが
どういう全体世界になっているかが
見えてくる.
その全体世界は
一反の反物のように長く
或いは
大きな絨毯のように大きくそこに
存在し
なにひとつ損なわれていない
美しい全体です。
それはねえ~、
決して
怯えや恐れや
コンプレックスなどに
おびやかされるような
チャチなものでは
ありませんよ・・・。
ここまで辿り着いてもらうと
もう
言うことはない!
そして、
はっきりと明言しますが、
どんな人間も
そういう世界を
生きているはずなんですぞ!
しかし
その自分の全景を
眺めるまでが
大変な
道則なのですね。
時間も年月も
かかります。
そして
勇気や
決心や
覚悟が必要なんだね!
このブログを読んで下さっている方々に
全員に出あえるわけでは
ないけれど
でも
自分とは
そういう全景をもって生きていることを
お伝えしたい。
いつか
見えるといいね!
自分を一生懸命追及して
ああーっと
あるとき
振り帰ったら
そこ一面に
マグノリアの花が
咲いている。
そのときやっと
きづくかもしれない、
ああ
私の世界は
こんなに優しいのだとね。
がんばって
越えていきましょう。

生まれたての
花!