シリーズ・不安と恐怖を脱出する・その1使用価値の経済をとりもどす。 |
棲みこんでしまった
人間および人間社会への
恐怖と不安を
どう克服するか。
そのひとつは
私が子供時代に獲得してしまった
神経ネットワークと
情動、心理のマザーデーターに
原因があるともいえるが
今日は、
私自身、およびこの社会を
煙幕のように覆っている
共同幻想のなかに流れる不安と恐怖。
つまり
現代社会を貫通している、
経済の認識について・・・・と
この社会全体を覆いつくし、
今や、
金権と物質文化というその化け物に
喰いつくされて
瀕死状態のわたし達の”文化”について・・・
書きます。
3月13日の朝日新聞朝刊、オピニオン欄に
哲学者”内山 節(うちやま たかし)氏の
インタヴュー記事が載っていました。
テーマはデフレ脱却についてです。
が
内山氏は
すべてが貨幣に収斂していく
資本主義の”交換価値”経済が
世界をを支配しており
その毒に染まってしまった世界及び
日本の経済の崩壊がある。
それを金融緩和で
デフレから抜け出そうとすることこそ
共同の幻想に過ぎないと
述べています。
私自身も
金融緩和で
デフレから抜け出そうとすることは
一時的な対処療法として
瞬間的な痛みや不安を
取り除いた
時間稼ぎに過ぎないと
思います。
そして更に内山氏は、
アダムスミスの経済論から
「人間がモノの価値を実感するのは、
役にたつかどうかの『使用価値』で、
一方、お金に換算し、貨幣としての価値を産むのが
『交換価値』であり
使用価値を定義するのは難しく、
20世紀以降は
『使用価値』が置き去りにされ
金融経済、『交換価値』ばかりが経済政策として
重用されてきた。
つまり、交換価値が高まれば
使用価値もたかまり、
つまり、経済成長をすれば、
生活も豊かになる・・・という
暗黙の合意が,その仮定が
高度経済成長の時代は
通用したが
もうその限界にきている。
”交換価値”とは
そのモノが
貨幣との交換によって算出される価値です。
”使用価値”とは
そのモノが使用されることによって
どのような役割をするかの価値です。
そのモノ自体の内容を価値化したものです。
”交換価値”の代表は
株取引きです。
株取引は
そのモノの内容や品質や役割や存在価値が
問われません。
そこにあるのは
市場競争のなか
そのモノが”株取引”のなかで
どれくらい貨幣との交換価値があるかです。
つまり
世界中が
このモノは
こういう人々により
こういう生産過程を経て
こういう内容と品質を持ち
それは、生活や社会の中で
こういう役割を持っている・・・・という
”使用価値”によって
ものの値段や価値が量られ
経済化してゆくと
いうことではなく
世界のカブ取り引きの
”マネーゲ-ム”のなかで
交換価値のみが評価されてはびこり
経済が翻弄されている・・・のが
デフレの根幹的な
問題だというのです。
この交換価値の経済は
もう
わたし達の意識の中に
刷り込まれてしまい
もう何の疑問すらもたれず、
人々の体中に毒として
廻ってしまいました。
私達は日常的に
この交換価値に基づいた意識の中毒に
陥ってしまっています。
このモノが
どんな材料で
どんな人々の手によって
どんな風に創られ
どんな内容とどんな品質と
どんな役割をもっているか・・・・で
値段が決まるのが
まともな経済です。
しかし今日の生活意識の中で
大衆が求めるのは
使用価値
つまりモノの内容や価値より
より安価で
より
自分たちが”お得をする”という・・・
金銭意識です。
そこには
人が
人に役立つものを
その労力のエネルギーを
注ぎ込んで
創っている・・・という
意識と価値観は
霧失され、
より安くて得なものという
単に貨幣との交換のみに
注意と意識が
収斂していっています。
悲しい現実ですね。
モノの内容や品質および
モノに対する尊敬もなければ、
モノに対する優しさもなければ
モノを創る人間の存在への尊敬も共感も
消えて
逆に
市場競争によって
どんどん
ディスカウンとしてしまい、
更に
モノを売るひとびとさえも
自分をディスカウントしながら
(労働コストを下げられる・・というディスカウント)
売る・・・という
デフレの負の連鎖が
今・・・です。
だからいくらお金を刷っても
根本的な
その構造を変えていかない限り
安倍さんのマジックは
やがて大きなインフレ反動となって
跳ねかってくる危険が
あります。
そしてこの物質社会のありようこそ
わたし達の存在の仕方が
そこに
写し出されていることでも
あります。
つまり”消費されていく人間”
”消費されていく文化”
です。
内面的な追求がされず、
外面的なものばかりが
もてはやされていく人間の
文化です。
以前私はこのブログで
”人間はモノではない”と
書きました。
私達は一人一人が
自分という内容を持ち
それぞれが
自分の人生の場で
自分独特の世界を創りながら
自分の役割を果たしていきています。
いや
自分はなんの役にも立っていないと言う人も
いるかもしれませんが
それでも
人間はすべて関係において
自分を成立させていますから
やっぱり
社会の大切な一員です。
そのとき
人間が消費されていくとは
どういうことでしょうか。
また、商品化された人間が
まるであたかも成功者のように
闊歩してしまうという
世界はどうなんでしょうか。
人間は商品では
ありません。
また
商品はそこに人間のかかわりがあって
はじめて価値を投入され
商品となります。
言わせてもらえば、
人間は
自分を
”ディスカウント”しては
いけません。
同時に
自分の役に立つモノに対しては
キチンと
対価や等価を
払うべきです。
モノは
人と人とを繋ぐ文化だからです。
そして
商業主義文化に
流されず、
自分にとって必要なもの
不必要なものに対しての
明確な認識、見極めをもたないと
どんどん資本主義の末期現象の中に
道連れにされてしまいます。
わたし達は、
お金優先の迷路で
出口を見失ってしまいます。
内山先生は
「資本主義経済は成長し続けないと
行き詰まるという困った原理をもっている。
市場で競争するしくみだから、たえず商品の下落が起きる。
そこでいかに安くつくるかとなって、
新技術の導入で効率よくやろうという動きと
賃金など労働コストを下げる動きがでてくる。
新しい産業が余った労働力を吸収できないと、
失業者が増え消費が落ちて市場が縮小し
逆に資本主義の発展を阻むことになる。
しかし、市場の拡大が極端な格差社会を生むようになった
今日では、これまでの論理は通用しません。
物価が上がる、上がらないという狭い論争はやめて
地域、地域にふさわしい
持続可能な労働の場を創っていくことを
考えるできです。」と
むすんでします。
随分ながながと引用し書いてきましたが
私にとっては
やっと
まともなことを言う人が
現れ、ほっとしたという感じです。
私はずーっと
モノに対しては
その対価を支払うべきだと
主張してきました。
私の人生のキーワードとして
”所有”ということがあります。
モノも
人も
人の心も
欲に駆られて
所有しない。
不安な人ほど
欲張り
必要以上に
所有しようとします。
それはモノだけではなく
人をも
つまり
夫や妻や子供
そして
友人や
他人を
所有しようとして
その人間たちに執着します。
つまり
モノの状態は
その人間の心の状態でも
あるんです。
モノを多く所有するのではなく
良質なモノを
”必要なだけ”
獲得する。
そして
モノの内容と生産の手間に対しては
それ見合う価値を支払うべきだとして
ちゃんと
自分もそのように物を買い
お金を払って来ました。
自分が得をしようとは
まったく思いません。
むしろ
そのモノに満たされる喜びと
感謝があります。
しかし、残念ながら
それはまったくの
私の
孤立した思想と行為であり
これまでも
それを口にする度に
虚空にむなしく響くばかりでした。
モノをどう扱うかということは
自分をどう扱うか・・ということでもあります。
モノを買うということは
モノに投影された自分を
買うということでもあります。
今、日本人は
自分はモノとどう向き合うか・・・が問われているのに
世の中はまだ
資本主義の金融経済優先の
催眠術から
目が覚めません。
私が不安に襲われることのひとつは
実は
この私の在りようは
まったく孤立しているということでも
あります。
日本人が
日本の国が
もうこれ以上豊かな世界は
ありえないだろうというのに
まだ人々は
今以上を
求めている
その欲の深さに
私は怯えます。
自分の立っているこの国の
足元が不安で
しかたがないのです。
内山先生の以下の言葉のように
「貨幣を増やせば、生活が豊かになる
経済成長すれば、何でも解決できるという古い意識に
捉われている人たちが、
内輪で同じことを言い合っているうちに、
それがだんだん真理のように思えてくる。」
という
擬制(fiction)の政治や産業体制の
その幻想の真っ只中で
人々はまだ
眠りから覚めない・・・というこの現実に
なにか大きな暗い淵に連れ込まれそうで
大変な不安と恐怖を感じて仕方がないのです。
資本主義とグローバリズムの
ハメルン笛吹きの笛の音につられて
やがて深い淵へとつれこまれるのかも
しれない・・・と
懸念します。
そしてもう
私達は、
交換価値の世界から
使用価値の世界へと
使用価値=創造性を発揮した
モノづくりの世界への
大きな方向転換が
必要だと
思います。
必要なものを
必要なだけつくり
所有し
消費する・・・の世界です。
そして
人間は、自分の心を満たすことを
モノに”依存”
しない!
もうほんとうに
自分の人生を
自分で満たすことに
気づいてほしいなあーと
思います。
それは
人々が
ディスカウントされない自分に
気づくことです。
しかし
脆弱な私には
このブログを書く以外
何もできません。
心理的バランスを失いかけた私は
もしかしたら
過剰に敏感になっているのだとも
思いますが、
今の日本人達の足元の危さが
霧のように私を包み込み
不安です。
だから時々
この世から逃げたくなってしまうのですよ・・・笑!
でも
なんとか
しなくちゃね!
次回は隣国”中国"について
ちょっと考えていることを
書きます。
やっと春だね!