シリーズ、不安と恐怖を脱出するその3、主よ、どうぞ! |
私の中から不安を取り除いて
ください。
内なるエネルギーで
満たしてください。
これは,このところずーっと
朝の祈りで
書き綴っている言葉です。
主よ・・・と書くのは
私が以前はキリスト教を信仰していたからです。
その祈りの文脈が今も
身体の中に息づいて
いるからです。
つまりこの「主・・・。」とは
私の中の客観性であり、
すべてを
自分の自我の意識で解決しようとする自分から
自分を解き放つ
自分放棄の呪文の
言葉なのです。
自我とは、自分の意識が
自分とは・・と自分を定義している自分です。
だからそこにはたくさんの
自分の思い込みや、
思い込まされたものや
そしてそれは
自分の全体からすれば、
一部分にすぎないのです。
祈りとは
自分放棄でもあり、
自分放棄とは
自己の
脆弱さや限界を
自覚し
つまり
ちっぽけな自分を
自覚し、
自分の中で何もかもを
コントロールしようと
せず、
そういう
自我の意識の自分を
捨てて、
自分の限界やその
すべてを
自我の外に委ねようとするものです。
それは
自分の”自我の意識”を
放棄することで
自分の全体(意識と無意識)を
放棄することではありません。
しかし
時に宗教に依存するひとは
これ勘違いして
自分の内的な力(自力)をも
放棄し
盲目的に依存してしまいます。
そうではなく
一時的に
自我がシュミレーションして
自分をいじくり廻すことを
やめると
いうことですね。
信仰を持っている人なら
神や仏ということになるし
私の場合は
私の”無意識”に
まかせてしまう・・・と
言うことです。
任せて
じたばたしないと言う事です。
不安や恐怖とは
自分の想定外のことがおきてしまうことに対し、
それをコントロールできない自分への
無力感がその裏にあります。
そしてその負のシュミレーションが始まると
もう不安や恐怖を
増幅させる情動(ワニとねずみの脳)が
大活躍し始めて
そういうシュミレーションばかりを
頭の中に
これでもか、これでもかと
巡らせて行きます。
でも、それはすべて
仮定と仮想のことで
今の現実におきていることでは
ないのですよ。
その仮想と仮定が
頭を身体を
襲ってしまうのです。
なぜかというと、
つまり
そこには
自分を信頼できない自分があります。
自分の軸が
壊れてしまっているからです。
つまり
自信喪失の状態です。
今の私はまさに
自分を信頼できない
そういうホルモンが
体中に染み渡ってしまったと
言うことでしょう。
だから、ひとまず、
自我のシュミレーションを
やめて
自己放棄、
自分をポーンと
天へと投げて
その
客観的な言葉として
”主よ”という言葉を
使い
そこから、祈りの言葉を
書き始めます。
そしてやっと
最近
すこしずつ
私の意識も
私の身体も
回復してきています。
まあ
頭と身体が
負の仮想と仮定に
過敏に反応することが
少しずつ
治まってきています。
そして今
私は
天から降ってくる言葉を
待っています。
ヤレヤレ!
希望とは
今の自分の限界を超えて
自分とじぶんを取り巻く世界が
変化する可能性を
言うのであり、
人間は常に
そこを
目指して生きています。
生きるということは
そういうことだと
思いますよ。
つまり人間は常に
明日の可能性を
夢見て生きており
それが断たれたときに
絶望して
エネルギーを失ってしまう。
そして
それが断たれるということは
自分の意識の中だけで解決しようと
あがくから
そうなるのであり、
わたし達の無意識の中には
私達の意識を超えて
私達を生かそうという
大きな働きが
あります。
今私は、
そういう
自分の無意識の世界に
もう山や海のようにある
チエと可能性に
自分を委ねて
待っています・・・・笑!
そして
すべてが熟してきたとき
ポーンと
空から
言葉が
降って来ると
思いますよ。

そうなると
いいねえ~!
いや
なりますよ・・・・。
