シリーズ、不安と恐怖を脱出するその6、心が通わない・・・?! |
「通わぬ心、結婚17年目の診断」というタイトルで
アスペルガー症候群の夫との生活で悩む
女性達の記事がありました。
アスペルガー症候群というのは
脳の機能障害で、知力や言語力には
問題はないが、
人間関係のコミニケーションにおいて
なかなか相手や外部との関係が
巧くできない・・・というものです。
しかし人間社会の進歩や進化は
この人々に牽引されている・・といっても
良いくらいに
頭が良く、天才的な人々でもあります。
アスペルガーの人達は
決して悪意があるわけでもなく
むしろ逆で
心はとても純粋です。
しかし
その周囲の人々は
常に置いて行かれるというか
ほおって置かれるというか
つまり彼らは
自己完結しているため
そこに人間らしい”感情”の交換を
求めると
周囲の人はたいいがい傷ついてしまいます。
この記事にも
「或る日体調を崩し、玄関先で吐いてしまった次女
その姿が見えているはずの夫は、
声もかけずにパソコンで趣味の英語学習に
没頭していた。
やはり一緒に暮らし続けることはできないー。と
離婚の決意をした・・・。」と
書いてありました。
そうだろうなあ~と
思います。
アスペルガーの人たちは
察するとか
気遣うということが
ほとんどできない。
できないというより
そういうアンテナが希薄というか
弱い・・・。
だから
次女さんが吐いている姿が
目に入っていても
ピンとこないのだと
思いますよ。
かれらだって
ピンときたら、すぐに対応したいという
心の優しさはあるのですが、
それが行為、行動へと結ぶべない
そういう脳の構造をもっているからです。
アスペルガーの人の
周囲にいる人は
そういう感情の交換ができなくて
とても苦しむと思います。
しかしねえ~、
でも
それは
アスペルガーの人だけが
そうなんでしょうか・・・?
と
私は思うのですよ。
たいがいの人は
この記事のように
吐いて、苦しそうにしている人をみれば
どうしたのですか、
大丈夫ですか,..と
手をさしのべようとします。
しかし
それも
その人の感情のささやかな交換で
瞬間的な交換で
とっさの行為に過ぎません。
日常的には
たいがいの人間も
自分の感情をそう開きっぱなしにして
生きていません。
むしろ
自分の限界を感じるからこそ
閉じて、
他者との関係をコントロールしていると
思いますよ。
もう、本能的に
そうしていると思います。
脳の本質がそうなんですから。
つまり
脳は個人、個人がまったく別物で
他人に対しては
自分の内臓データーでしか
反応、対応できません。
つまり
その生命が破綻しないように
無意識のうちに
自分にとって”有益で重要情報のみ”を
選び取りながら
他者との係わりを取捨しているから
そうそう
他人へかかわることが
できません。
その辺の分かりやすい説明を
脳の研究者や学者たちにがんばって
もらいたいですよ。
だから、他人のことは
◎ ”自分が理解できる範囲でしか理解できない”
のです。
だからこそ
その限界の不安を
カバーしようとして、
つまり
ほんとうは無いものを
あるよう見せかける、
家族愛の神話や
夫婦愛の神話や
親子愛の神話や
社会愛=貢献や犠牲や親切、善意という
愛の神話(幻想)や
それぞれの個と集団を止揚する
常識
倫理
規範、法律・・・という
社会理念の
数々の神話や
幻想が
必要であり、
あたかも
それらが実相であるかのような
錯覚を
共有しながら
自分(人間)の生命を
保全しているのですね。
そして
そういう脳の個絶と断絶が
あるからこそ、
その厳しさがあるからこそ
逆に
集団への依存や
他者からの”認知”を
欲するのです。
ほんとうは
自分ひとりで生きているからこそ
だから不安になり
その孤独感を感じ
個である
不安を
”緩和するために”
自分と他者を幻想化する
親子愛の神話や
家族神話や、
夫婦愛の神話を
幻想かして
創りだし、
自分と社会を
共同幻想で繋ごうと
規範と倫理をベースに
社会を神話化したり
幻想化したりして
生き延びている。
その神話や幻想を
吟味することなく
無条件に受けいれてしまうと
相手や他者への
”要求”を
してしまいます。
つまり
こうあって欲しいと、
”求めてしまう”
逆にアスペルガーの人たちは
その
”求められたこと”に対して
応じられない・・・という
むしろ
正直さが
あります。
また
”求める”ということは
相手に依存し
相手のエネルギーを当てにし
奪うことでもありますから
ホントウは
求めてはいけないんですね。
求められても
答えられんないんです、
人間は
誰もが・・・。
私などは
他者から理解されることが
難しく
自分の孤独を引き受けている
アスペルガーの人たちから
逆に
”自立しろよ”と
言われている気がします。
彼らは、
私がこんなに貴方のために
やっているのだから
その見返りをくれるのが
当然でしょう・・・という
感情の交換など
通用しません。
それを非難するのは
感情が交換できる・・・という
神話(幻想)を
信じている(依存している)者の
甘えですからね。
以前にも書きましたが
わたし達人間は
ほんの
ささやかな”愛”しか
他者にあげられない!
例えば
親と子の愛情だって
親は子を育てるために
自分を犠牲にして頑張っているでしょう。
それは
そうなんだと思います。
しかしそれも
子供からたくさんの
無垢の愛を
もらっていてこそ
そうできるので、
そこには
親と子の
目には見えない
ささやかな愛が交換されています。
夫婦も
家族も
同じで
そこに
”多くの愛情”を求めると
その関係は
破綻していきます。
日々がささやかに過ぎて行くように
日々の中のほんのちょっとした
愛情の交換が
わたし達のエネルギーに
なります。
それは
求められたから
あげる
のではなく
相手を
そのまま(ありのまま)
尊重し
理解する・・・という
人間として
まったく対等な関係の中でこそ
すがすがしく
さりげなく
交換されていきます。
夫にも
妻にも
子供にも
友人にも
同僚にも
そしてすれ違うひとびとにも
”求めない”
”相手への幻想”を
捨て、
そのありのままを
受け入れる。
夫婦とは○○だ
○○であるべきだ
夫婦なんだから
○○してほしい・・・という
要求も、
それは
その人間の思い込みや
幻想です。
同様に家族も
親子も
社会も
国家も
自分達の孤独と孤立と不安と弱さが
”裏返った幻想”の中に
あることに
気づいてゆく。
でもね~、
それはそうなんだけれども・・・です・・・・・が・・・・?
わたし達の家族や
親子や
集団や
社会が
それなりに
機能しているなら
そこには
目には見えない
ささやかな愛が
もうすでに
ある・・ということでも
あります。
あるんですよ・・・。
それは
欲ばらず
依存せず
甘えをとって
目を
凝らしてみると
見えてくるはずですよ・・・!!
以前
脳の学者と
精神分析の学者との対談で
ご紹介した
”脳の自発的活動はまるで
シンフォニーのようだ”
のように
その脳が投影された
わたし達の
”存在と関係”は
それぞれの人間が
ひとつの楽器のように
それぞれの人が自分の個性を生き、
演奏すること
そのことこそが
豊穣な交響曲のように
社会を創り、
奏で、
全体の美しさを
創りあげていくことだと
思います。
同様に、
そういう風に
小さな家庭の調和と
大きな社会の調和として
個々の人間が
絶妙なバランスをとりながら
私達人間は
生き延びている・・・と
私は思います。
そしてそれは
日々に
人間に営まれながら
わたしの、
皆さんの、
すぐ
そばで
そうなっていると
思いますよ!
心が通うといいね、
ささやかに
サ・・・!!