シリーズ、不安と恐怖を脱出するその9、全部最初からやり直す・・・! |
ああ、やっぱり・・・。
それはカウンセリングもおなじだなあ~と
いう文があり
しみじみとした感慨があった。
それは
その学者が学問をふかめてゆくなかで、
「一度ならずも、二度も、
それまでの自分の方法論や、考え方を
根本から総検討して転回してゆく、と
いうことの
くりかえしでした。」
「これまでやってきた事を
潔く全部捨てて、
新しく出直す、くらいの気持ちで、
新鮮に再構築をやると、
スカッとした良い仕事ができます。
せっかくこんなに読んだのだから、
書いたのだからと、
ケチケチしてはだめです。
大胆に捨てたものは、必ずどこかみえないところで、
栄養になっています。」
カウンセリングの究極も
こういうことだと
思います。
前半の
自分の親はじめ、周囲の人間との関係で集めた
ローカルな情報が
もう
全否定されてしまう・・・くらいで
始めて
新しい自分や
新しい視点が見えてきます。
また、
そこからの”再構築“の過程こそ
それまでの自分と
新しい人自分とが統合され
新生自分への始まりです。
つまり、
人間はそれまでの自分が否定されない限り
それまでの自分のローカルな世界が
そのまま
外部世界と一致する・・・と
思いこんで生きてしまいます。
世界は広くて大きいのに
その自分のローカルな世界が
世界・・・だと思い込んで
それを
そのまま当てはめて行動してしまうからです。
だから
自分はほんとにローカルな
自分の掌分くらいしかない情報を
知っているだけで
実は
ほんの限られた情報しか
しらない・・
という
自覚がひつようなのですが、
問題は、
それを
自覚できる・・・ということを
頭の知識けではなく
”感性や感覚”
そして”情動、感情をもを
もって
つまり
”からだと頭”の
両方で
そういう認識する・・・・・ということが
必要で
そうして初めて
その人間の頭と身体との全体が
ひとつのスーパーコンピューターのように
作動し始める、
そこまで到達するのが
もう
”至難の技”
なんですね。
人間は
分かっている
知っている・・・と
思い込んだことには
もう
興味を示しません。
ホントウは
自分の掌ほどの
小さくて、貧しい情報しか
しらないのに・・・、
ほんとうは
わかっていないのに
わかったツモリになって
行動しているのですよ。
自分が分かっているつもりになって生きている人が
ほとんどだと思います。
そして
わかったつもりになってしまうと
もう
新しい情報には
興味を示しません。
実はこれがとても困った問題なんですね。
わかってないのに
分かったつもりでいて
その自分の想定外がおきると
とたんに
恐怖や不安でへこんでしまう、
落ち込んでしまう。
わかっていないのに
わかったつもりの
手持ちの情報だけでそれを操作し
浅いところの認識で
深いものまで推し量ってしまう。
だから世界はいっこうに
見えてこない。
つまり
深い人間認識や知識や考察や
水準の高い、
高次な時限の思惟・・までに
到達するには
まず、
自分は限られたことしか
分かっていない・・という
自己認識があってこそ
そこへ到る追求が
可能なのです。
日本で初めてノーベル賞を
受賞した湯川秀樹博士は
会議の時
もう誰にとっても既知の前提となっている
初歩的な事を
質問しては
しばしば会議のなかでの
顰蹙をかっていたそうです。
周囲の人間はそんな博士に対して
いまさらなんでそういうこと
質問するの・・・?と
なかば、迷惑に怪訝に思ったらしいですが、
実は
もう
分かったつもりになっている
初歩的なことの中に
みおとしているなかに
たくさんの
重要なことが
潜んでいて
後になってみんなびっくりした・・・ということを
読んだことがあります。
記憶のメカニズムとは
そういう
既知や
分かっていると脳が判断したものは
ドンドン排除されていきます。
だからこそ
”意識的な自覚”が
必要なんですね。
湯川博士の知能と才能は
その辺を自覚されていたからではないか
だからいつも
研究が
原点からの
再構築という試みのなかで
常に知識と研究が
洗いなおされて
瑞々しく
才能が結実していかれたのではないかとも
私は思います。
実は
人間は
わかったツモリになることのほうが
安心なのです。
カウンセリングでいうと
前半の人生で獲得した情報で
わかったつもりになっているほうが
自我は安心なのです。
そういう心理操作を
やってしまうのです。
実体は
わかってないだらけなのに・・・。
多くのひとびとは
そういう守備範囲の中で
生きようとします。
しかし
勇気をもって
自分のそれまでを
全否定する
全部最初から
やり直す。
それができたとき
その人間は
格段に変化していきます。
そこには
今まで見ていた風景とは別物の
世界が
見えてくるからです。
どうしてそうなのか・・・ということは
きわめて単純に簡単明瞭な理論なんですよ。
つまり
自分がつまずくとか
失敗するとか
挫折するということは、
それまでの
その人の生き方の何かが
原因で
そうなってしまう・・・という
極めて
簡単な理論的分析なのです。
今の自分が獲得している
人間関係を結ぶ雛形となっているものが
どこかが支障をきたしている・・・ということですよ。
つまり
自分のそれまでを
全否定する
全部最初から
やり直す・・・ということは
自分の表層部で
自分を取り仕切っている
他者から請け負わされた
或いは
そう、思い込んでしまった自我を
退治し
インナーチャイルドを
救い出す・・ということも
あるんです。
そのとき
この”全部”ということが
とても重要です。
部分的な手直しなんかでは
だめなんですよ。
なぜなら
すべてが
”関係”という
連鎖と連動の中で
複雑に結合しているからです。
つまり部分は全体へと
連動回帰しており
人間の行為の動機付けのところが
変わらないかぎり
また動機付けによって
連動する情動が
変わらないかぎり
そこにダイナミックなものは
おきないのです。
つまり
自分が180度回転することで、
表面で取り仕切る
インナーチャイルドが固執していた世界が
壊れ
壊れるとともに
それまで抑圧していた
本来のインナーチャイルドがやっと
自分の表舞台に
出てくることでも
あります。
親や社会への仮面化していた
インナーチャイルドが
その仮面をはがされ
自分の本来の心や
感性にみちた
インナーチャイルドがあらわれるにつれ
それは、
その人間がこれまでの
自分の実感に基づいた直観
その本来のインナーチャイルドの
実情報の直観が
ドンドン働き出していきます。
自分の本音にもとづいた
直観が
ドンドン働くようになります。
勿論そのときには
同時に
自分をすべて肯定する
自覚的な意識が必要です。
そしてそれまでの
自分の情報も
「大胆に捨てたものは、必ずどこかみえないところで、
栄養になっています。」
のとおり
自分の既存情報として
ちゃーんと栄養になってくれます。
ただね、
『自分のそれまでを
全否定する
全部最初から
やり直す・・・』ことは
そう簡単に
誰でもができることでは
ありません。
そこには大変な心理的なリスクと
身体のリスクがあるからです。
どうしてかというと
人間は
どうしても、自分の現状を維持してないと
不安や恐怖が
湧いてしまうからです。
その感情との葛藤や不安を
克服する戦いが
自分の中でおきてきますから・・。
一時的に
身体に負荷がかかったり
自分が墜落するリスクという
代償を払う必要がある
あるのですね。
1月のブログで書きましたように
私自身が自分の内面にメスを入れた時のように
どうしても
現状を維持しようという自分との
葛藤が起きてしまうのです。
しかし
だからこそ、
実はその墜落から立ち上がるときにこそ
産みの苦しみをとおりぬけたときこそ
ホントウに
新鮮な新しい自分が生まれます。
カウンセラーとしては
もう覚悟をきめて
その人の中の
自律しようとする力を
信頼し、
見守るしかありません。
そこを越えきると
そこからの実りというか
格段に視野が広がり
それまでの
フィルターをつけたような
感覚ではなく
感性が敏感な
直観が作動して行きます。
いきます。
まあ、めったにここまで
到達する人も
なかなかいないのですが、
しかし
それほどではなくても
自分はほんとうは
何も知らない!・・・という
自覚のある
”自分の器”をもつことは
デキルでしょ。
そう、あの
ソクラテスの
{無知の知」です。
断っておきますが
それは
へりくだり
謙虚になることとは
違いますからね。
そういうことはいかにも
日本人的な集団主義の中での自己抑止として
でたことで
その抑止とは
まるきり
違いますからね・・・。
「無知の知」とは
”しらない”と
いうことを
自覚することで
更に
自分の脳を全開し
貪欲に
可能性を
信頼することです。
しらない・・・ということが
自覚できたとき
新しい世界
新しい出会いとが
可能になってくるのです。
今朝も
その学者の本を読みながら
ああ、この方もやっぱり
「死と再生」の
そういう自己葛藤をのりこえたからこそ
この本の中には
ある普遍性を指し示す
言葉が
溢れているのだと
思いました。
インナーチャイルドを救い出し
そして
ホントウに
それができたときこそ
自分の自然性に基づいて生き
更に自分の中にあるものが
息づいていくのだと
思いますよ。
人間
深いです。