シリーズ、不安と恐怖を脱出するその12、ペアレントからの解放! |
先日孫のフミちゃんを抱いている写真を
お嫁さんのしおちゃんが
撮ってくれました。
その写真をみると
なるほど、いい歳のお婆さんに
なっています。
この1月からの葛藤を通して
また一枚、
脱皮ができたかなあ~と
思います。
それは、
他者に対しての私の中にあった
ペアレントの視点が
確実にフェードアウトしていることです。
まだ、なくなった訳ではありませんが
でも、今までとは
格段に消えています。
ペアレントの視点とは
心理学者エリックバーン博士の理論である
交流分析の理論で
人間の自我のパターンは
1、ペアレント、2アダルト、3チャイルドの
3種類に別れ
それぞれが瞬時に相手に反応しながら
現れ、交流を図る・・・というものです。
中でも
ペアレントは
自分の親からバトンされた意識で、
慈しみ、育てるペアレントと
規範を持ち、批判的で、
指示命令を出すペアレントの
二つに分かれており、
今回私の中で
消えていっているのは
規範的で批判的なペアレントです。
これまでも、
私自身はもう自覚的に
規範意識や批判意識を
排除してきましたが、
それでも
私の親の中にあった
強烈な批判感覚といいましょうか、
そういうものが
今だに私の中で
なかなか取れず、
手を焼いていました。
でもやっと
やっと
それからも
解放されてきたということです。
もう遠くなった若き日、
私もたくさん苦しみ
どうしても自分を救いたくて
近くのカソリック教会へ
飛び込み
祈り
そこで洗礼を受けました。
神という客観性の中で
自分を突き放し、
鏡を見るように
自分の姿を客観的にみる・・・ために
です。
聖書の世界は
やさしくて、
そしてたくさんの聖書の中の言葉を
知りました。
それは今でも私の心のなかで
生きています。
その教えられた中に
「人を裁いてはいけない、
それは
自分が裁かれることでもある」
という聖書の言葉は
今でもずーっと
私の脳裏にあります。
しかし
どうしても
私の中にもう深く沁み込んでしまっている
ペアレントの批判意識は
瞬間的、自動的に作動して
他者を裁いてしまい、
なかなか取ることが
できませんでした。
でも、今、もう66歳になろうとしてやっと
やっとその汚れを取ることが
できそうです。
そして現在の私は
自立(律)するために、、
つまり一元的な神の支配と
”人格神”への依存から
自立するために
もう、”宗教”としての
キリスト教からは
離れてしまいましたが、
自分の限界を
超えてある
”おおいなるもの”
つまり
小さくて
脆弱で
無知なる自分
その自分を超えて
図ってくれるもの
導いてくれるものとして
今も
”主よ・・・”と
祈ります。
クムラン教の中の
1修行者であったのではないか・・と言われている
キリストと及びそのモデル達や
それを広く広めようとした
ローマ市民のパウロの
命がけのメッセージである
聖書の言葉、
人間の生きることに
深い洞察を持ち
導こうとした
聖書の中の
この言葉の重さと
そして
人間の尊厳に対する
深いまなざしとに
今でも
敬意をもっています。
ひとはそれぞれの限界のなかを
必死に
懸命にいきているのであり
その命の営みは
すべて
そのまま
ありのままに
それぞれの人間に
託されている・・・・。
そうだねえ~・・・・・・・
他者を裁かない自分・・・・。
やっと
そういう地平に
辿りつくことができたのでしょうかねえ~!
まだまだかも
しれませんがねえー!
でも
ほっと
安らぎが
あります。
安らぎが
ね。
良かったなあ~!!
トルコ桔梗の花を
描きました。
白くてボーっとしているのと
それを見ているピンクの花の
両方が
私だと
思います。