シリーズ・天才と暮らす・チョー鈍感な男! |
私も風を引いて寝こんでしまいました。
夜中に喉がひりひりしだして、
こりゃあーアカンと
うがいをしましたが
朝はもう完全に喉が腫れていました。
朝起きると
父ちゃんは
がーデンショップへ
花の苗を買いに行こうといいます。
でも私は風邪みたいだし、
いけない・・というと
じゃだめかあー・・・と
あきらめ顔になったので
気の毒になり、
まだ熱が出てなくて
体も楽だからいいよ・・・と
一緒に
花の苗を買いに行きました。
もう、お分かりですね・・・。
つまり
私は保護者です・・・・笑い!
そして、ここからが
本題!
花の苗を買って帰ってくると
もう私の熱が上がり始めており
すぐ二階の寝室にあがり、
ベッドに転がり込みました。
しかし
父ちゃんは
花の苗を買ってくると
私のことなど全く忘れたように
その日は
夜半1時ごろ
彼が寝るために寝室に上がってくるまで
一度も
私の事を見にくることは
ありませんでした。
花の苗を買って来たら
もう、花のことしか頭になく
それに夢中になり
私が用を足しに二階から降りてきたとき
彼はもうパソコンのマージャンゲームに
没頭していました。
まあ
ふつうなら
まあ私なら
相手が熱を出してねていたら、
様子を見に行き
具合をたしかめ
それなりに
世話をやきますが、
うちの父ちゃんにかぎって
そんなことは
いっさい
ナイ
・・・・トホホホ!
まあ
一事が万事
父ちゃんと暮らす・・・ということは
そういうことで
父ちゃんは
他者のことに
気を使う
配慮する
思いやるということが
ことごとく
できない・・・のです。
二人の子供が
まだ幼児のころだったと
思いますが、
ご飯ができたよーと
家族によびかけ
みんなテーブルに着き
私は汁物をすくって
ふと
テーブルの方を
振り返ると
ああーーーー。
父ちゃんは
自分だけ箸をもってきて
もう食べている。
子供は
ぽかんとそれを見ていました。
あんた、何で
子供の箸も
もってきてやらないで
ひとりで食べているの・・・・と
私は
激怒しました。
まあこんなことが
日常茶飯で
そういう類のエピソードなら
山ほどあり
それを思い出すと
私は怒り狂わなければならず、
それに
それは愚痴にしかなりませんし、
ほとんど忘れたので
書きませんが、
私は
妻でも嫁でもなく
いつもガミガミと彼に
爆弾を落とす。。。保護者となり
そういう結婚生活のなかで
彼は
家族への興味を失い
まるで
家族などなかったことのように
仕事へとのめりこんでいきました。
私はごく普通の夫婦のやりとりもなく
子供二人を抱えて
心理的にも物理的にも
置き去りにされた状態になり
いつも心の中の不全感を
埋めようもなく
彼に向き合っても
いつも手ごたえもなくスルーされるのに
傷ついて悲しみや
憎しみに捉われて
更に
自分のこころが砂漠化するなかで
ほんのすこしの水が
やさしい水が
自分を癒してくれることを求めて
近くにあった
カソリックの教会へと
飛び込みました。
今回の本題は
そういう私の苦しみを書くことでは在りません。
たしかにそういう父ちゃんとの暮らしは
いつも置き去りにされ、
何一つワケがわからないままに
放置されて
家庭と家族のことは
私ひとりで全部背負い
たいへんでしたが、
その中から
だからこそかなあー、
父ちゃんのとの生活の中で
私が思い知らされ
そして気づき、目が頭が覚醒していった事を
書きたいのです。
それを皆様に
おつたえしたいのです。
彼との生活の中で
見えてきたのは、
実は
人間社会の幻想を取り除いて
見えてくる人間存在の
リアリティー
私たちが気づかなければならない
人間の本質
そして
その人間の本質に基づいた
人間相互の
”関係”について、
さらに
そこから
つまり
人間及び人間社会の幻想を
払拭して
人間の関係を
厳視したとき
初めてみえてくる
自分の本質と可能性。
つまり
自分の中には
なにが
あるか・・・を
更に
自分を
生かすとは、
どうすればいいか・・・。
について
書こうと思っているわけです。
ただね、
この父ちゃんとの
生活で
私はほんとうに苦しみました。」
だから
人間の苦しみが
誰にも言えず自分でかかえているしかない
その苦しみと
人間(自分)の限界
人間の弱さ
が
痛いほど分かりました。
私もいっときキリスト教へ
自分の救いを求め、祈りました。
だから
苦しみの中にある人が
自分を超えるおおいなるものや
神や宗教へと
救いを求める気持ちがもう
肌身に沁みて
分かります。
しかし
しかし
後ほど書きますが
ニーチェではありませんが、
人間はそこから更に依存を超えて
神や宗教からも
自立しなければ
何も解決しないことも
よーく
分かりました。
キリスト教も私に素晴らしい事を
教えてくれました。
聖書の中の言葉は
わたし達の人生の手引書として
美しく、また
リアルに心に響いてくるものが
多々あります。
それも
人間が命と引き換えに言葉を
刻みながら書かれた
人類の歴史の中の遺産だと
思います。
しかし
以前書きましたように
キリスト教も今、
解明されて来ています。
ただ
このことに踏み込むことは
西欧アイデンティティーを
覆すことになりますから
まだまだ
時間が必要でしょう。
まあ
そういう中で
父ちゃんが
まっしぐらに
のめりこみ
走りこんでいったのが
あの
バーコードの世界です。
そこには
私達とは違う世界を見ている
父ちゃんが
いました。
父ちゃんの目とは、
私たちが
捉われているものには
捉われず
まッすぐに
人間社会の
骨格と構造と内容を見つめている
スペクタルな
目です。
実は
人間社会というのは
そのスペクタルな
つまり複雑で壮大な構造(ハード)と
内容(ソフト)が
常に前史が後史に螺旋状に止揚されながら
歴史が作られていきます。
ただそれが見えるためには
日常的なものを超越していないと
ダメなんですね。
視線がそこではなく
日常をこえた全体を
見ているのです。
そのスペクタルな構造を
常に、瞬時に把握するには
第一優先順位のものを
非妥協的に
そのまま積み重ねていくしかないのです。
この非妥協・・・決して妥協しない・・ということも
凡人にはなかなかできません。
むしろ人生を妥協の産物だと
思っている人ほうが
圧倒的多数でしょう。
更に
何を第一優先にするかがまた
難しいのです。
たいがいの人は
無意識に自分優先しているのですが
その無意識部分が汚染されていると
それは自己防衛やエゴへ
繫がっていきます。
その汚染されていない
無意識というのが
とても難しいことなのですね。
そういう脳の
使い方が
できる
使い方を
する・・・・ということが
可能なんですよ。
大仰な言い方をすれば
それは
脳の一番原始的である
情動の脳、
ワニとネズミの脳を
いかに超えるか・・・ということで
ワニとネズミの脳に
捉われている限り
つまり個人的な感情に捉われているかぎり、
人間は
瑣末な争いばかりに
目を奪われ
無駄なエネルギーを注いで
全体が
見えない。
父ちゃんは
個人の情動的なことに
ものすごく鈍感で
それに、欲がなく
エゴが薄い!
まあ
言い方をよく言えば
そういうことに
超然としていて
なお
私の苦しみにも
超然としている・・・笑い!・・・クソッ!
そういう父ちゃんとの
格闘でえたものが
それは依存を棄て
自立し
自分を信頼し
自分の中にあるものを
掘り起こしていく
私のカウンセリングであり
更に
インナーチャイルドを
救い出す・・ということです。
まあ
平たく言えば
優しくされず
思いやりもなく
ねぎらう言葉もない中の
大変な夫婦の関係を
良く持ちこたえたなあーと
思います。
しかし
それは
父ちゃんも
たくさんの人から
誤解され続けたでしょう
そして
反対者や抵抗勢力に
潰されそうになる中
憤然として
11年
やり抜いていったのは
まさしく
彼が
まっすぐに
まっしぐらに
これこそ
本質であり
未来であると
確信したものを
決して譲らなかったからだと
思います。
次回はその事を
もっと
紅花をかきました。
、