2013年 05月 25日
岩田慶治著『道元との対話』より,地と柄・意識と無意識の世界! |
私は若い頃よく音楽の中に没入しました。
没入して、その没入が深くなると
一種のトランス状態になり
自分が解体し流動化しそして
波動化してなんともいえない
陶酔の中にプカプカと海の泡のように
浮遊しました。
そのとき自我の塔は
確実に倒壊し消えていました。
逆にそこから
娑婆へと帰る中でまた
自我がもくもくと姿を現し
塔のように立ってきて
世の中に怯え
この世に戻るのが
嫌になりました・・・苦笑!
陶酔して海に浮かぶ泡となった自分は
自我の縛りがなくなり
個々の人間の境目をなくした自分で
果てしなく広いその空間で
まことに
まことに
幸福感にみちていました。
反対に音楽の陶酔から覚めて
意識を取り戻したとき
自我は
塔のように立ち
まるで砦のように
私を固め
指令塔として
エゴと
プライドがそそり立ち
他人の自我と対峙します。
ときにそれは
他人を廃し
威嚇し
そして
対立していました。
今から思うと
世の中で生きる
怯えの反動が
自我のなかにあったと
思います。
そして私は
自分の自我の中は
この怯えと対立するもの達で
埋め尽くされており
それが
私を苦しめ
瞬間的に
わたしの感情を乗っ取り
神経を刺激しては
他者との対立の中に
私を立たせてしまう原因たちだと
分かりました。
だからこの対立そして怯えを
ひとつひとつ解決してゆくこと。
(取り除いてゆくこと。)
その道すがらに
私の幸福の種が落ちていると
思いました。
常に対立で自分が苦しくなるたびに
対立の原因となっている事を
つきとめては、
感情も含めて
それを解決してゆきました。
解決というのは
その原因になったことは
単にそれを除去すればいいというのではなく
そこに
傷ついている自分がいて
不安におののいている自分がいて
なぜそうなったっかを
つきとめては
解決し
安心させていく・・・という
プロセスが
必要だからです。
対立とは
もともとの自分が
この世に生まれた瞬間から
他者の作り出した環境世界の中で
いきるしかない・・という
存在の不合理の中から
必然にうまれてしまう
他者たちと
自分との
相違であり
感情的な
確執でも
あります。
そして怯えは
もともと動物としての
存在の怯えというものが
私達には内包されていると
思います。
自我意識とは
この世の中で生きてゆくために
獲得した
自分に指令を出す
最高指令本部のようなもので、
人間は
そのひとの
脳のデーターバンクから
瞬時にデーターをとりだしては
仮想した未来とつき合わせて
その人間の行動を決定している。
データーバンクは
もともとの遺伝的なものと
本能的なもの、
そして
その人間が自分の生きる環境のなかで
獲得したものなどが
並立してあり
優先と必要に応じて
取り出され、行動化されていく。
そしてその結果がまた
書き加えられ
その都度データーは
常に書き換えられてゆく。
そして
自我意識のなかは
この世に適合しようとする意識でありますから
”気をつけなければ
ヤバイよ・・”という
危険や危機に対する警告の意識や
防衛の意識が
集積されてゆき
そこに
自分本来の自然性と
時に
相容れなかったり
矛盾したりする
自分と対立するもうひとりの
自分の意識が
林立していくと
私は思っています。
自分の中に
自分本来の自然性に基づいた自分と
それと対立する自分が
同時に存在している。
だから
その対立を
たくさん抱えている人間ほど
その対立を
他人の中に投影しては
相手と対立してしまう。
それが
トラブルや
確執となり
苦しいのですね。
それはまさに
人間対人間という意識の範囲内で
自我として成立して
おきてくるものです。
しかし
その意識の世界も
人間には必然であり
人間が獲得してきたものです。
そして
その意識の世界がが
かろうじて
人間どうしの接点としての
共同世界(幻想世界)をつくりながら
人間社会を
支えています。
そしてもうひとつは
無意識の世界で
それは自我をも包み込んでいる
大きな世界です。
岩田先生が書いておられる
「地と柄の世界」の
地の世界です。
人間の自我意識を超越する
命、いきものとしての
自然なエネルギーの流れであり
命と命が出遭う世界としてあります。
本来、命は天真であり
自我意識の先入観や選別や計算などが
書き込まれる前の
素朴な命の反応が
そこにあります。
しかし
一方
本能の世界も
そこにありますから
本能的に怯え
瞬間的に反射的に
行動しようとする世界でも
あります。
命は人間の意識の範囲を超えて
命の属性にそって生き
その命とは
人間も草木も動物も虫も魚もすべてに横断してある
命の働きの世界です。
それぞれの輪郭を超越してある
命そのものの営みのせかいです。
岩田先生が、
道元がいう、
生きとし生けるものすべてものを網羅し
貫いている働きということです。
その無意識の天真な命の働きが
意識によって
抑圧されて
うまく働けないのが
抑圧された
インナーチャイルドです。
脳の機能として言えば
時系列に秩序がある左脳の働きとと
時系列がなく
すべてが並列的に
浮遊している右脳の働きとがあって
時系列的に範囲や秩序を
決定しようとする働きと
それを超越して自己データーそのものを
自由に解放して保持しようという働きとの
その総体として
人間の命の働きがある・・・とでも
いうのでしょうか、
まあ私は脳のことは
素人程度の知識ですから
そこは突っ込まないでおきますが。
私たちが生きるということは
意識の世界も
無意識の世界も
両方の世界を生きるということです。
岩田先生が書いておられる
「地と柄の世界」は
私は「無意識と意識の世界」だと
理解しています。
地の上に柄が描かれるように
意識は
無意識のなかで包括されながらも
さかさまに
突出してわたしたの表面に
出てきます。
地である無意識は
意識を包み込みながら
総体として
滑らかに
人間の存在を起動させています。
わたし達の精神活動は
その総体の中で
必要に応じて
脳のゲートが開き、
柄が浮かんだり
(意識が浮かんだり)
地である
無意識で反応したりして
生命を作動、起動させて
います。
自分だと自覚しているのは
意識して行動している自分で
無意識に、本能的に反射的に
無自覚に行動している自分には
ほとんど気づきませんね。
しかし他人の目に見えるには
総体の自分です。
(地と柄の両方の自分)
そして
私が思うのは
おそらく
これからの人間に必要なのは
つまり未来社会で
人間が平和に暮らすために必要なのは
この無意識領域に対しての
理解だと
思います。
まだまだ多くの人々は
意識しているのが
自分だと
思い込んでいます。
しかし
意識はほんの一部であり
多くは
圧倒的に無意識で為される行動であり、
意識の警戒が解かれているときは
ほとんど無意識で行動しています。
人間は
人間の社会を是として
生きていますから
いつの間にかすべてを
人間社会の範囲の中で
解決しようとするようになりました。
それは意識内での
解決をしようということです。
人間だけに必要で
人間だけに有効で
人間を中心とした世界です。
つまり
人間が意識できる世界が
すべてであるかのような
錯覚というか
その錯覚、思い込みのままを
スライドさせて
そういう世界観を積み上げ
突き進んできましたが
それはとても傲慢な世界観で
あの3,11の地震と津波と
原発事故で
見事に
自然からの反撃を受けてしまいました。
そして
人間の意識内で生きようとする
人間は
自分の自然性を疎外し抑圧したために
たくさんの心的な亀裂や歪みを
無意識内でおこし
その病理に
苦しみだしています。
それは
自我と無意識のなかにある
人間の自然性とが
自我意識の中の対立が
もうかなり限界にきているのだろうと
私は思います。
私達は
あまりにも対立ばかりの世界で
生き過ぎました。
対立の底にあるのは
人間不信と
自己防衛のエゴ
そして本能的な不安だと
私は思います。
その対立はもうどうしようもなく
外部世界へと投影され
地球全体に蔓延していっています。
国家や民族にに投影された対立で
世界はあちこちで
紛争がおき、
この日本もそこに
まきこまれようと
しています。
わたし達の財産である
日本国憲法も捻じ曲げられ
いまは
その憲法さえ変えてしまおうという
気配さえでてきています。
そうじゃない
もっと
大切なことに
気づかなければ・・・・・。
私達は
対立は外にあると
思い込んでいます。
そうじゃないんです。
対立は
自分の中にあり
それが
他人や外部を通して
鏡のように
写し出されているだけなんです。
わたし達の本質は
父母未詳以前の世界。
ただただ命の世界でね、
命は共感しあい
共振しあい
海に浮かぶ泡のように
不連続に連続しながら
この世も
宇宙もあります。
ただ
命は
命を食らって生きる・・という
厳しい命の属性をも
生きなければならない。
そのために
対立し
攻撃するという
命の格闘の
”契機”を
自分に内包している。
それは
”契機”だけです。
だからこそ
人間に課せられた課題は
意識的にその矛盾を超え
なおかつ
それを高次に止揚しながら
いきなければならないのです
それは
高次の脳を持つ
人間として
知恵が問われ
すべての関係
自然との関係
他者との関係
社会との関係にたいして
知性(文化)を磨き
解決していく必要があるのです。
そのとき
一人一人の人間が
いかに
自分の中の対立構造に
気づいていくかが
必要なんです。
つまり
無意識内にある
自分の問題性に気づいてゆく。
私流に言えば
無意識内に
抑圧している
自分のインナーチャイルドを
救出して
無意識内を
お掃除すると
言うことです。
お掃除された無意識は
今度は逆に
その透明で
すがすがしさを
意識に転写してくれます。
無意識から差し込む光と愛が
今度は意識を
そのように導くのです。
命が命を食らって生きるという
命の業が
その業の荒々しさを今度は
意識を持って
コントロールするのです。
そして初めて
人間は
生き物としての
業を克服し
高次の脳を持つものとしての
働きを為すことができるのですね。
それが
これからの未来への
人間の取り組むべき
課題だと
思います。
以前もブログで
ご紹介しましたが
対談の本の中で
アホ生物学者とアホ哲学者が
自分探しなんてやめろ・・と
言っていましたが
そうじゃないです。
自分を捜してください。
自分の中を掘り下げてください。
自分の内面を
見つめてください。
傍観者でいないで
ください。
そして
自分を理解しだしていくことが
他者を理解することに
つながります。
しいては
人間とはなにか
人間として
どう生きたらいいか
人間として何をなすべきか・・・が
見えてきます。
自分の中の対立には
欲やコンプレックスや
自己否定や
自己疑心などで覆われた
悲しい自分がいます。
その自分を救い出して
癒し、抱きしめ
光の中に置く。
その人間の中の対立がひとつ減るごとに
ひとつの争いが消えます。
そうして
人間は
個々に覚醒しながら
人間社会を
文化で牽引していく必要があります。
文化とは
差別や
区別を超える
知性です。
それは
ほんとうに
共同し
共感して
平安の中に
生きていく知恵です。
そういう知恵を
いかに働かせて行くかが
今からの時代の課題だと
私は思います。
次回は
この
個々の
一人一人の覚醒こそが
時代を創り
そして
わたし達の不安や恐怖や
閉塞感を解決する未来へと
つながっていくことを
書きたいと
思います。

木陰!
長文、お疲れ様でした!
バラクラ
イングリッシュガーデン。
没入して、その没入が深くなると
一種のトランス状態になり
自分が解体し流動化しそして
波動化してなんともいえない
陶酔の中にプカプカと海の泡のように
浮遊しました。
そのとき自我の塔は
確実に倒壊し消えていました。
逆にそこから
娑婆へと帰る中でまた
自我がもくもくと姿を現し
塔のように立ってきて
世の中に怯え
この世に戻るのが
嫌になりました・・・苦笑!
陶酔して海に浮かぶ泡となった自分は
自我の縛りがなくなり
個々の人間の境目をなくした自分で
果てしなく広いその空間で
まことに
まことに
幸福感にみちていました。
反対に音楽の陶酔から覚めて
意識を取り戻したとき
自我は
塔のように立ち
まるで砦のように
私を固め
指令塔として
エゴと
プライドがそそり立ち
他人の自我と対峙します。
ときにそれは
他人を廃し
威嚇し
そして
対立していました。
今から思うと
世の中で生きる
怯えの反動が
自我のなかにあったと
思います。
そして私は
自分の自我の中は
この怯えと対立するもの達で
埋め尽くされており
それが
私を苦しめ
瞬間的に
わたしの感情を乗っ取り
神経を刺激しては
他者との対立の中に
私を立たせてしまう原因たちだと
分かりました。
だからこの対立そして怯えを
ひとつひとつ解決してゆくこと。
(取り除いてゆくこと。)
その道すがらに
私の幸福の種が落ちていると
思いました。
常に対立で自分が苦しくなるたびに
対立の原因となっている事を
つきとめては、
感情も含めて
それを解決してゆきました。
解決というのは
その原因になったことは
単にそれを除去すればいいというのではなく
そこに
傷ついている自分がいて
不安におののいている自分がいて
なぜそうなったっかを
つきとめては
解決し
安心させていく・・・という
プロセスが
必要だからです。
対立とは
もともとの自分が
この世に生まれた瞬間から
他者の作り出した環境世界の中で
いきるしかない・・という
存在の不合理の中から
必然にうまれてしまう
他者たちと
自分との
相違であり
感情的な
確執でも
あります。
そして怯えは
もともと動物としての
存在の怯えというものが
私達には内包されていると
思います。
自我意識とは
この世の中で生きてゆくために
獲得した
自分に指令を出す
最高指令本部のようなもので、
人間は
そのひとの
脳のデーターバンクから
瞬時にデーターをとりだしては
仮想した未来とつき合わせて
その人間の行動を決定している。
データーバンクは
もともとの遺伝的なものと
本能的なもの、
そして
その人間が自分の生きる環境のなかで
獲得したものなどが
並立してあり
優先と必要に応じて
取り出され、行動化されていく。
そしてその結果がまた
書き加えられ
その都度データーは
常に書き換えられてゆく。
そして
自我意識のなかは
この世に適合しようとする意識でありますから
”気をつけなければ
ヤバイよ・・”という
危険や危機に対する警告の意識や
防衛の意識が
集積されてゆき
そこに
自分本来の自然性と
時に
相容れなかったり
矛盾したりする
自分と対立するもうひとりの
自分の意識が
林立していくと
私は思っています。
自分の中に
自分本来の自然性に基づいた自分と
それと対立する自分が
同時に存在している。
だから
その対立を
たくさん抱えている人間ほど
その対立を
他人の中に投影しては
相手と対立してしまう。
それが
トラブルや
確執となり
苦しいのですね。
それはまさに
人間対人間という意識の範囲内で
自我として成立して
おきてくるものです。
しかし
その意識の世界も
人間には必然であり
人間が獲得してきたものです。
そして
その意識の世界がが
かろうじて
人間どうしの接点としての
共同世界(幻想世界)をつくりながら
人間社会を
支えています。
そしてもうひとつは
無意識の世界で
それは自我をも包み込んでいる
大きな世界です。
岩田先生が書いておられる
「地と柄の世界」の
地の世界です。
人間の自我意識を超越する
命、いきものとしての
自然なエネルギーの流れであり
命と命が出遭う世界としてあります。
本来、命は天真であり
自我意識の先入観や選別や計算などが
書き込まれる前の
素朴な命の反応が
そこにあります。
しかし
一方
本能の世界も
そこにありますから
本能的に怯え
瞬間的に反射的に
行動しようとする世界でも
あります。
命は人間の意識の範囲を超えて
命の属性にそって生き
その命とは
人間も草木も動物も虫も魚もすべてに横断してある
命の働きの世界です。
それぞれの輪郭を超越してある
命そのものの営みのせかいです。
岩田先生が、
道元がいう、
生きとし生けるものすべてものを網羅し
貫いている働きということです。
その無意識の天真な命の働きが
意識によって
抑圧されて
うまく働けないのが
抑圧された
インナーチャイルドです。
脳の機能として言えば
時系列に秩序がある左脳の働きとと
時系列がなく
すべてが並列的に
浮遊している右脳の働きとがあって
時系列的に範囲や秩序を
決定しようとする働きと
それを超越して自己データーそのものを
自由に解放して保持しようという働きとの
その総体として
人間の命の働きがある・・・とでも
いうのでしょうか、
まあ私は脳のことは
素人程度の知識ですから
そこは突っ込まないでおきますが。
私たちが生きるということは
意識の世界も
無意識の世界も
両方の世界を生きるということです。
岩田先生が書いておられる
「地と柄の世界」は
私は「無意識と意識の世界」だと
理解しています。
地の上に柄が描かれるように
意識は
無意識のなかで包括されながらも
さかさまに
突出してわたしたの表面に
出てきます。
地である無意識は
意識を包み込みながら
総体として
滑らかに
人間の存在を起動させています。
わたし達の精神活動は
その総体の中で
必要に応じて
脳のゲートが開き、
柄が浮かんだり
(意識が浮かんだり)
地である
無意識で反応したりして
生命を作動、起動させて
います。
自分だと自覚しているのは
意識して行動している自分で
無意識に、本能的に反射的に
無自覚に行動している自分には
ほとんど気づきませんね。
しかし他人の目に見えるには
総体の自分です。
(地と柄の両方の自分)
そして
私が思うのは
おそらく
これからの人間に必要なのは
つまり未来社会で
人間が平和に暮らすために必要なのは
この無意識領域に対しての
理解だと
思います。
まだまだ多くの人々は
意識しているのが
自分だと
思い込んでいます。
しかし
意識はほんの一部であり
多くは
圧倒的に無意識で為される行動であり、
意識の警戒が解かれているときは
ほとんど無意識で行動しています。
人間は
人間の社会を是として
生きていますから
いつの間にかすべてを
人間社会の範囲の中で
解決しようとするようになりました。
それは意識内での
解決をしようということです。
人間だけに必要で
人間だけに有効で
人間を中心とした世界です。
つまり
人間が意識できる世界が
すべてであるかのような
錯覚というか
その錯覚、思い込みのままを
スライドさせて
そういう世界観を積み上げ
突き進んできましたが
それはとても傲慢な世界観で
あの3,11の地震と津波と
原発事故で
見事に
自然からの反撃を受けてしまいました。
そして
人間の意識内で生きようとする
人間は
自分の自然性を疎外し抑圧したために
たくさんの心的な亀裂や歪みを
無意識内でおこし
その病理に
苦しみだしています。
それは
自我と無意識のなかにある
人間の自然性とが
自我意識の中の対立が
もうかなり限界にきているのだろうと
私は思います。
私達は
あまりにも対立ばかりの世界で
生き過ぎました。
対立の底にあるのは
人間不信と
自己防衛のエゴ
そして本能的な不安だと
私は思います。
その対立はもうどうしようもなく
外部世界へと投影され
地球全体に蔓延していっています。
国家や民族にに投影された対立で
世界はあちこちで
紛争がおき、
この日本もそこに
まきこまれようと
しています。
わたし達の財産である
日本国憲法も捻じ曲げられ
いまは
その憲法さえ変えてしまおうという
気配さえでてきています。
そうじゃない
もっと
大切なことに
気づかなければ・・・・・。
私達は
対立は外にあると
思い込んでいます。
そうじゃないんです。
対立は
自分の中にあり
それが
他人や外部を通して
鏡のように
写し出されているだけなんです。
わたし達の本質は
父母未詳以前の世界。
ただただ命の世界でね、
命は共感しあい
共振しあい
海に浮かぶ泡のように
不連続に連続しながら
この世も
宇宙もあります。
ただ
命は
命を食らって生きる・・という
厳しい命の属性をも
生きなければならない。
そのために
対立し
攻撃するという
命の格闘の
”契機”を
自分に内包している。
それは
”契機”だけです。
だからこそ
人間に課せられた課題は
意識的にその矛盾を超え
なおかつ
それを高次に止揚しながら
いきなければならないのです
それは
高次の脳を持つ
人間として
知恵が問われ
すべての関係
自然との関係
他者との関係
社会との関係にたいして
知性(文化)を磨き
解決していく必要があるのです。
そのとき
一人一人の人間が
いかに
自分の中の対立構造に
気づいていくかが
必要なんです。
つまり
無意識内にある
自分の問題性に気づいてゆく。
私流に言えば
無意識内に
抑圧している
自分のインナーチャイルドを
救出して
無意識内を
お掃除すると
言うことです。
お掃除された無意識は
今度は逆に
その透明で
すがすがしさを
意識に転写してくれます。
無意識から差し込む光と愛が
今度は意識を
そのように導くのです。
命が命を食らって生きるという
命の業が
その業の荒々しさを今度は
意識を持って
コントロールするのです。
そして初めて
人間は
生き物としての
業を克服し
高次の脳を持つものとしての
働きを為すことができるのですね。
それが
これからの未来への
人間の取り組むべき
課題だと
思います。
以前もブログで
ご紹介しましたが
対談の本の中で
アホ生物学者とアホ哲学者が
自分探しなんてやめろ・・と
言っていましたが
そうじゃないです。
自分を捜してください。
自分の中を掘り下げてください。
自分の内面を
見つめてください。
傍観者でいないで
ください。
そして
自分を理解しだしていくことが
他者を理解することに
つながります。
しいては
人間とはなにか
人間として
どう生きたらいいか
人間として何をなすべきか・・・が
見えてきます。
自分の中の対立には
欲やコンプレックスや
自己否定や
自己疑心などで覆われた
悲しい自分がいます。
その自分を救い出して
癒し、抱きしめ
光の中に置く。
その人間の中の対立がひとつ減るごとに
ひとつの争いが消えます。
そうして
人間は
個々に覚醒しながら
人間社会を
文化で牽引していく必要があります。
文化とは
差別や
区別を超える
知性です。
それは
ほんとうに
共同し
共感して
平安の中に
生きていく知恵です。
そういう知恵を
いかに働かせて行くかが
今からの時代の課題だと
私は思います。
次回は
この
個々の
一人一人の覚醒こそが
時代を創り
そして
わたし達の不安や恐怖や
閉塞感を解決する未来へと
つながっていくことを
書きたいと
思います。

木陰!
長文、お疲れ様でした!
バラクラ
イングリッシュガーデン。
by denshinbashira
| 2013-05-25 07:38
| 夢から醒めるということ。
|
Comments(1)
このお話を読んで、“天国と地獄”のこんな例え話しを思い出しました。
そのたとえ話はこうです。
“とても大きな鍋の周りに大勢の人がいて、一人ひとりが自分の口には運べないほど長い箸をもっている。「地獄」ではわれ先にと鍋に箸を入れ、むりやり自分の口に運ぼうとしてみにくい争いが生じ、結局だれも食べられない”
“一方「天国」では、互いの箸を箸の届く人に食べさせることで全員が食べることが出来た”
“天国も地獄も本当は「同じ場所」にある。ただ違うのは『そこでの振舞い方』だけだ”と書いてありました。
日本は本当に“災害の多い場所”です。ここが“天国”か“地獄”かは、私たち日本人の“胸先三寸”に掛かっているといっても過言ではないかもと言う気がします。
そのたとえ話はこうです。
“とても大きな鍋の周りに大勢の人がいて、一人ひとりが自分の口には運べないほど長い箸をもっている。「地獄」ではわれ先にと鍋に箸を入れ、むりやり自分の口に運ぼうとしてみにくい争いが生じ、結局だれも食べられない”
“一方「天国」では、互いの箸を箸の届く人に食べさせることで全員が食べることが出来た”
“天国も地獄も本当は「同じ場所」にある。ただ違うのは『そこでの振舞い方』だけだ”と書いてありました。
日本は本当に“災害の多い場所”です。ここが“天国”か“地獄”かは、私たち日本人の“胸先三寸”に掛かっているといっても過言ではないかもと言う気がします。
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