2013年 06月 04日
夢から醒めるということ・わが道を驀進する! |
このところちょっと
辛い事が起きて
朝起きると心臓の辺りに
悲しみが滞っている。
頭の中ではもう整理ついているが
やはり、体にうけた衝撃と悲しみが
なかなかとれないんだね。
だから、朝ラジオ体操をしながら
少しべそをかき、
チョッと涙がでて治まりました。
人間はそのひとが克服しなければならないことが
次から次へと
起きてきます。
わたしももう
随分お掃除できたけど
今、私の中におきてくる悲しみを
分析すると
まだ
世の中に依存している自分が
いましたねえ~。
今回のことは
私にとっては間接的なことであるが
自分の身内におきたことで、
その人間の辛さや悲しさに
私が共鳴している。
(これは、自他の分離ができていない・・・ということです)
その身内の人間のことを
知り尽くしている私は
その人間が誤解されていることに
対して
悔しく悲しいのである。
しかし
それは
その人間の課題であるから
わたしは
傍でみているしかない。
(これは自他の分離ができています)
そして
なぜ悲しいかというと
おそらくその誤解がとけるには
時間がかかるであろうし
また永遠に
誤解がとけないかもしれない。
その人間の考えていることが
あまりにも遠大なため
それは
実現して見せない限り
理解を得ることは
むずかしい・・・と
私は思っている。
つまり
私は
その人間が誤解され
受け入れられない・・・ということに
対しての
無念さに
共振しているのである。
しかしねえ~
そこにあるのは
世の中に
”受け入れられたい”という
依存だねえ~!
そして
私自身の自他の分離の
不十分です。
まず、
その人間が
精一杯の誠意をもってやろうとしたその事を
受け入れられないのなら
それはそれで
いいのです。
受け入れられようとしてしまうと
どうしても
本質的問題の
スケールを縮小せざるを得ない。
その人間が遠く何年も先をみこして今
打ち込んでいる杭を
理解されるはずがないのです。
一方、その人間の
アナウンスも足りない。
しかし
その人間はアナウンス能力が
きわめて不良・・・・。
しかし
アナウンス能力が優れている人間は
おそらく
そういう遠大な構想は
持たないと
思いますよ・・・。
アナウンスでは
説明しきれない
凡庸には
難解で
イメージできないことを
イメージしているのだからね。
だから
はじめから
受け入れられるはずがない事を
無謀にもやっていて
それが誤解されるのは
もう必然なんです。
他人から受け入れられる
社会から受け入れられる・・・ことを
望みながらやることは
そこには
当然のことながら
妥協や縮小などの
折り合いを
つけなければならない。
しかし
ほんとうに
それは
必要なのだろうか・・・・と
私は思う。
受け入れられることと
引き換えに
最初の構想も
展望も
どんどん後退していくのは
必然でしょう。
受け入れられなくてもいいです。
妥協や縮小は
いらないです。
そうして内容も価値も
ディスカウントしたものを
ギフトしても
しかたありません。
その人間は
ホントウに誠実に
人々のことを
思い
10年先の
20年先の
50年先の世界のことを思い
今を掘り起こし
ギフトしようと
しています。
この一点において
私はその人間を見守り
私自身の中に
まだ
あった
受け入れられたい・・という
依存と
甘えとを
さらに
蹴っ飛ばしましょう!!!
人間は
受け入れられたい
理解されたい
まあ時には
愛されたい・・・・という
依存や甘えを
持った瞬間から
その人間の内部に
自己ディスカウントが
起きてきます。
自己ディスカウントが
おきると
どんどん
自分が崩れ
後退していきます。
その代償として
悲しみが
立ち上ってきます。
それもまあ
人間といえば
人間らしいことでもありますが
でも
そこを
えい・・・っと
ケツ飛ばし
たとえ
他人や
世の中に
受け入れられなくとも
わが道を
驀進していくことです。
以前書きましたが
たとえ小さなことでも
譲らない!
それは
自我が自己防衛のために
かたくなに
譲らない・・・ということでは
ありませんよ。
自分の志は
ひとかけらも
譲らない・・・ということです。
そうではなく
自分という人間のひとかけらでも
他人に譲り渡した瞬間から
もう地すべりが
はじまります。
さあ
私も
さっさと
依存も
甘えの
すてて
今日も
元気に
いきることに
します。
辛い事が起きて
朝起きると心臓の辺りに
悲しみが滞っている。
頭の中ではもう整理ついているが
やはり、体にうけた衝撃と悲しみが
なかなかとれないんだね。
だから、朝ラジオ体操をしながら
少しべそをかき、
チョッと涙がでて治まりました。
人間はそのひとが克服しなければならないことが
次から次へと
起きてきます。
わたしももう
随分お掃除できたけど
今、私の中におきてくる悲しみを
分析すると
まだ
世の中に依存している自分が
いましたねえ~。
今回のことは
私にとっては間接的なことであるが
自分の身内におきたことで、
その人間の辛さや悲しさに
私が共鳴している。
(これは、自他の分離ができていない・・・ということです)
その身内の人間のことを
知り尽くしている私は
その人間が誤解されていることに
対して
悔しく悲しいのである。
しかし
それは
その人間の課題であるから
わたしは
傍でみているしかない。
(これは自他の分離ができています)
そして
なぜ悲しいかというと
おそらくその誤解がとけるには
時間がかかるであろうし
また永遠に
誤解がとけないかもしれない。
その人間の考えていることが
あまりにも遠大なため
それは
実現して見せない限り
理解を得ることは
むずかしい・・・と
私は思っている。
つまり
私は
その人間が誤解され
受け入れられない・・・ということに
対しての
無念さに
共振しているのである。
しかしねえ~
そこにあるのは
世の中に
”受け入れられたい”という
依存だねえ~!
そして
私自身の自他の分離の
不十分です。
まず、
その人間が
精一杯の誠意をもってやろうとしたその事を
受け入れられないのなら
それはそれで
いいのです。
受け入れられようとしてしまうと
どうしても
本質的問題の
スケールを縮小せざるを得ない。
その人間が遠く何年も先をみこして今
打ち込んでいる杭を
理解されるはずがないのです。
一方、その人間の
アナウンスも足りない。
しかし
その人間はアナウンス能力が
きわめて不良・・・・。
しかし
アナウンス能力が優れている人間は
おそらく
そういう遠大な構想は
持たないと
思いますよ・・・。
アナウンスでは
説明しきれない
凡庸には
難解で
イメージできないことを
イメージしているのだからね。
だから
はじめから
受け入れられるはずがない事を
無謀にもやっていて
それが誤解されるのは
もう必然なんです。
他人から受け入れられる
社会から受け入れられる・・・ことを
望みながらやることは
そこには
当然のことながら
妥協や縮小などの
折り合いを
つけなければならない。
しかし
ほんとうに
それは
必要なのだろうか・・・・と
私は思う。
受け入れられることと
引き換えに
最初の構想も
展望も
どんどん後退していくのは
必然でしょう。
受け入れられなくてもいいです。
妥協や縮小は
いらないです。
そうして内容も価値も
ディスカウントしたものを
ギフトしても
しかたありません。
その人間は
ホントウに誠実に
人々のことを
思い
10年先の
20年先の
50年先の世界のことを思い
今を掘り起こし
ギフトしようと
しています。
この一点において
私はその人間を見守り
私自身の中に
まだ
あった
受け入れられたい・・という
依存と
甘えとを
さらに
蹴っ飛ばしましょう!!!
人間は
受け入れられたい
理解されたい
まあ時には
愛されたい・・・・という
依存や甘えを
持った瞬間から
その人間の内部に
自己ディスカウントが
起きてきます。
自己ディスカウントが
おきると
どんどん
自分が崩れ
後退していきます。
その代償として
悲しみが
立ち上ってきます。
それもまあ
人間といえば
人間らしいことでもありますが
でも
そこを
えい・・・っと
ケツ飛ばし
たとえ
他人や
世の中に
受け入れられなくとも
わが道を
驀進していくことです。
以前書きましたが
たとえ小さなことでも
譲らない!
それは
自我が自己防衛のために
かたくなに
譲らない・・・ということでは
ありませんよ。
自分の志は
ひとかけらも
譲らない・・・ということです。
そうではなく
自分という人間のひとかけらでも
他人に譲り渡した瞬間から
もう地すべりが
はじまります。
さあ
私も
さっさと
依存も
甘えの
すてて
今日も
元気に
いきることに
します。
by denshinbashira
| 2013-06-04 08:12
| 夢から醒めるということ。
|
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