岩田慶冶著「道元との対話」より「露柱も疲れたか」?その1 |
すべて
自分で完結している。』
今日はこのことを書きたいと
思います。
このことが
理解できるようになると
もちろん頭だけでなく
体ごとですが・・・。
生きる…ということの意味や
世界観が
大きく変ると思います。
うまくお伝えできるかなあ~???
初めに
この世界は自分で完結しているということを
もっとも端的に示している
岩田慶冶著「道元との対話」の中から
私の大好きな
禅の公案の話をご紹介いたします。
あるとき、唐代の禅匠、陸州道踪が
かねてより熱心に参禅していたお弟子の王常侍に
こういって尋ねたというのである。
その日、王常侍の来るの遅かったのでー。
陸、「今日はどうなさった」。
王、「馬打毬をみていて遅くなりました。」
陸、「人が毬を打つのか」。
馬が打つのか」。
王、「人が打つのです」。
陸、「人は疲れたか」。
王、「疲れました」。
陸、「馬も疲れたか」。
王、「疲れました」。
陸、「露柱も疲れたか」。
=====王常侍はこの質問にたいしてハタと
行きづまった。
応答のしようが
なかった。
いま、そこで問答している部屋の柱(露柱)は
打毬とは無関係なもの、
生命なくものである。
それがどうして疲れることがあろうか。
王常侍は、その晩寝ずに考えた。
そして
忽然として陸州の意を悟ったので、
翌朝、かれを訪ねてその旨を告げるー。
陸、「露柱も疲れたか」。
王、「疲れました」。
陸州はこの答えを聞いて、王常侍を許したというのである。
(鈴木大拙『仏教の大意』法蔵館 1948年)
人が疲れ、馬が疲れ、露柱が疲れた。
世界全体が疲れた。
このとき、露柱に向かって「疲れたの」と言葉をかければ、
露柱は、「そう、疲れたわ」と
答えたに違いないのである。
生きる…ということすべては
自分におきてくる現象です。
つまり
自分が感じ、
自分が思い
自分が行動することで
すべては
脳と体の働きです。
そして
すべては
"自分の"
脳と体のフィルターを通して
獲得され
選別され
記憶され
そして行動化されていきます。
つまり
この世におきることは
すべて
どれひとつをとっても
それらを
自分が認識するためには
"自分の"
脳と体のフィルターを
通してしか
私たちは
認識することができないのです。
そこにあるもの
そこに起きていること
世の中や世界に起きていること
すべてが
自分という
限定された人間の
脳と体によって
獲得され
蓄積されたデーターによって
解析され、
自分の中に埋め込まれた
言葉によって
翻訳され
言葉化され
そのもとに
行動が起こされるということです。
たとえば
同じ露柱を見ている
陸先生と
弟子の王さんとでは
それぞれの
露柱の見方が
まるっきり
違うということです。
陸先生は
その日は目覚めがすっきりして
だから
もう頭も
すっきり
体も
すっきりと晴れ晴れしく
だから露柱も
どてもさわやかに見えるかもしれません。
しかし弟子の王さんは
馬打毬をしてきたので
体も疲れ
グニャーとした座禅しかできず
そばの露柱も
なんとなく
古くてボロに見えてくる・・のかも
しれません。
つまり
人間の世界観というのは
常に
その人間の
主体に沿って生まれています。
だから
同じものを見ても
同じ出来事を
見ても
その人間が持っている
世界観によって
色付けされ
その人間の世界観の言葉で
翻訳され
意味や価値を
付加されていきます。
そしてそれは自分の
人間関係に
大きく投影されてしまいます。
つまり、
自分に起きている現象は
自分の在り方や
その人自身の
人間や世界に対する考え方などに
基づいて
実はその人が
引き起こしている
或いは
創りだしている
現象です。
たとえば
ある人がミスをしたとき
上司から
そのミスを指摘されたと
します。
その時
自分を肯定的に見ている人は
(肯定的な世界観を持っている人)
ミスを指摘されたことで
さらにミスを重ねなくて
ああよかった、
今度から気をつけよー・・とか
自分はこういうことには
きづけなかったので
よかったなあー・・・と
ひとつ増えた知識を喜び
自分にストロークを
与えます。
しかし
いつも自分をディスカウトしている人は
自分のミスを責め
自分の想定外におきたことで
自分にがっかりすると同時に
その思いが
周囲や他人へと投影され
他人から
自分が見下されているような
錯覚におちいり
更に
気分が傷つくほうへと
自分を追い込みます。
たとえ
ミスを指摘した時の
上司の言葉が厳しいとしても
自分をディスカウントしていない人は
ああ、やばい・・くらいにしか
感じませんが、
自分をディスカウントしている人は
全否定されたような
衝撃をうけ
自我が傷つき
感情が刺激され
そういう自分を
受け入れたくない・・という
反作用が働いて
自分のミスを
棚に上げて
ミス指摘した上司の人格に問題があるという風に
問題をすり替え
そういう傷ついた自分を救い
擁護するために
相手に対しての敵意や反抗心を
育てていきます。
しかし
事実は
その人がミスをしたという
一つだけです。
そして
それを指摘した上司の言葉に
何らかの攻撃的な感情が
こもっていたとしたら
それは
その上司が
部下のミスによって起きるリスクを
危機に感じ
その危機の不安感が
言葉に転写されてしまっているだけで
それはその上司自身の
問題です。
その上司の問題うというのは
その上司自身が
そのミスで感情的に
追い詰められた…ということです。
つまり
人間が
怒りや攻撃的な言葉や
否定的な態度を発する裏には
その人間の自信のなさや
不安感が潜んでいる
それが
強い言葉や態度になってしまうのです。
攻撃された人間や
叱責を受けた人間は
相手が
強くて、そうした態度に出ると
思いがちですが
そうではなく
心理的にピンチになっているのは
上司のほうです。
まあ
多くの人は
その辺をわからないでしょうね~。
でも
その辺をわかっていないと
部下のほうは
自分が不当に攻撃されたような
錯覚に陥り
上司との間にバトルが起きてきます。
(自他の分離ができていると
こういうことが
ちゃーんと客観的に見えてくるのですが
そうでないもう
すべてを自分流に団子化してしまうンだねえ~…ヤレヤレ!)|
世の中は
こういうトラブルだらけです。
人間は
おうおうにして、
こういう人間関係の罠に
陥ってしまいます。
おそらく
多くの人々は
自分の中の認識のフィルターを
取りだして
客観的に
検証、
吟味することも
ほとんどせず、
自分の世界を
そのまま他人の世界へと
あてはめ、
他人の行為行動を
自分の感情で
翻訳し、
それを言葉化して意識化したものを
もって
人間関係を
創っていきます。
残念なことに
それもまた
その人間の自己完結した
世界です。
つまり
自己完結した世界は
常に
合わせ鏡のように
世界を
映し出していきます。
他人に
世の中に
世界に
自分の世界を投影させて
それが
相手だと
思い込んでしまうのですが、
実は
それは相手や他人の姿を借りて
自分の姿が映し出されているのです。
つまり
合わせ鏡のようにです。
だから陸先生は
「露柱も疲れたか?」と
尋ねます。
そして
疲れた王さんの姿は
鏡のように
投影されて
露柱に見えるはずですから
王さんは、
考えて、はっと
気づきます。
しかし
問題なのは
自分に起きる現象が
たかだか
自分の小さな、
ときに
稚拙な
自己世界にすぎないのに
あたかも
だれでもが
そうであるかのように
思い込んだり
普遍的な人間の真実のように
錯覚して
しまううのですね。
そして
その錯覚が
たくさんの
人間関係の摩擦や
トラブルを
引き起こします。
つまり
人間関係は
ほとんどが錯覚であり
だからこそ
想定外のことばかりが
起きてくるのに
それを
人間自身が
理解できていないのです。
それが
民族や
自国の
”正義”となった時に
紛争がおこり
戦争へと驀進していきます。
王常侍さんが
覚醒しなければならないことは
自分とは
自分で認識された
”限定の自己世界”であり
だからこそ
すべてのことは
自分というフィルターを
通してしか
或いは
自分のフレームを通してしか
世界を認識、きない・・・という
自己完結の限界に対する
深い洞察と認識です。
このことを
しっかり
覚醒していないかぎり
人間は常に
他者や世界を
自分流に
翻訳し続け
誤解し続けて
生きます。
そして
そこにさらに自己ディスカウントが
激しい人間は
ドンドン自分を
痛め続け
推測と詮索で
自我の認識を
汚し続けます。
他人を常に悪意を持ったものとして
思い込み
無意識のなかで
自分と対立させてしまうのです。
まあ
そうなると
人生のベクトルは
幸福とは反対の方向へとばかり
向き続けるでしょう。
自分にとって、
見える
或いは
感じる世界は
すべて
自分の分身です。
(このことが分るといいねえー!)
王常侍が疲れ、
馬も疲れて
その王さんの見る視線の先の
露柱も
疲れて見えます。
露柱には
生命がなくても
そこには
王常侍から息吹を
吹き込まれた
自分の分身の
露柱がいるのです。
つまり
すべてこの世にあるものは
生きている人間の無意識、意識を
映し出しているものです。
それは常に
自分が意味づけをしたり
価値づけをして
自分の中に存在させている物であったり
風景であったりするのです。
だから
たとえ露柱は
生命なきものでも
そこには
露柱に
投影された王さんがいて
こんどは
露柱から王さんを見る・・という
その人間の客観性が
働きます。
だからこそ
陸先生は
「露柱もつかれたか・・?」と
問いかけたのですね。
つまり
すべてが
自分を投影した
自分せかいなんですね。
だから
この世界は
自分で完結している。
いわば
「天上天下唯我独尊」の
世界なんですね。
天上天下・・・つまり世界は
自分という人間が
いない限り成立しない。
そして世界は
自分がすべてなのです。
むずかしいねえ^?・??
でも
それは
すべては
自分次第で
どうにでも
生きられる・・ということでもあります。
自分がどう生きるかの
決定権はすべて
自分が持っている。
世界を
どのよに認識し
どのように意味づけ
どのように
価値づけるかは
すべて
自分次第ということです。
残念なことに
他人と自分は
まったくの”べつもの”で
他人に対しての評価は
その他人の真実では
なく
自分のフィルターを通してしか
見ることができない・・・という
深い
明瞭な
人間認識を持っていない人たちは
これについて
自分はこう思う…ということが
そのまま
他人に投影されてしまい
それがそのまま
客観性として働き、
他人から見ると
こう思われているに違いない・・・という
錯覚を生んでしまうのです。
だから被害”妄想”ということが
おきてしまうのです。
自分を主体的に
生きていない人は
常に
自分の生き方を決定する権利を
他人に譲渡し
依存しては
迷いの中を
さまようことになります。(世間に流される・・・。)
だからこそ
陸先生は
王さんに質問を
投げかけた。
それを発見
知ることが
そこからの
脱却であり
自己発見の始まりですね。
そして
もう一つ
とてもたいせつなことが
先日もかきました、
”全機現”ということです。
それは、
物事を認識するとき
或いは
自分が何か行動したとき
自分の中に起きることは
すべてが
同時に
全部が
起きている・・・ということです。
これを説明することは
なかなか難しくてねえ~??!
でも
自分=世界であり
世界=自分である・・というyことが
理解できるようになると
それは
ものすごく簡単なことです。
つまり
人間は
すべてを自己完結した世界でいきていますから
常に
その自己完結した世界を
丸ごと抱えて生きているから
自分に起きる現象や
自分の行為、
自分の感覚や
自分の感情や
自分の思考や
自分分析力や
判断力や
自分の環境や
世の中や世界や
宇宙など
自分の中にあるもの
すべてのこと
つまり
その生命体が生きるための
背景や
道具や
システムというものが
常に
連動してあり
お互いが
シンフォニックに起動、作動しながら
自分という現象が成立していく。
瞬間瞬間に
生命が
今と未来を止揚しながら
生命活動を維持している・・・とでも
いいましょうかねー
それが
全機現・・・ということです。
そしてね、
そこは
ほんとうは
他人など介入できない
完結された世界なんです・・・・・けど
自分での決定権を
放棄している
或いは
他人に寄生したり
依存している
その自覚がない人間は
もうー安直に、安易に
そういう自分を
信じることもなく
信頼することもなく
うかうかと
他人へ介入したり
依存したりして
他人の介入をゆるし
そうして
自分の世界を
自分で
攪乱させている・・・のですよ。
自分という人間は
常に自分世界という
完結した世界の中で生き
そして
他者や自分の外側の
未知の世界と
茂木健一郎氏のことばでいうなら
”予定調和”のない
人々や出来事と
出逢い、
刺激されながら
それらを
自分の中に統合し
編集して
さらに
その
完結した世界を
豊かに育てていく・・・・・のです。
それが
脳と体
或いは
命の属性とでも
いいましょうか
まったく自然な生命活動なんです。
そこには
常に
核となる
自分
シンフォニックな
自己世界が
息づいている・・・・と
いうことです。
自分を導くのは
”自分の舵”を取る自分です。
自分の闇を解決するのも
その闇から抜け出るのも
すべてが
自分です。
だから
それが
疎外されたときや
自分の舵取りを
放棄した時
人間は苦しみます。
うまくお伝えできたか
どうか・・・?
どうぞ
自分を
自分の手に
しっかり
握りしめて
いきてほいしと
思います。