岩田慶冶著「道元との対話」より「露柱も疲れたか」?その2 |
自己完結した世界である・・ということは
世界すべてが
自己の掌の中にある・・ということでも
あります。
つまり
私達はそれぞれが
この世も世界も宇宙も
所有している・・ということでも
ある。
もっと言うなら
自分のローカルな世界の先には
延々と世の中が広がり
世の中の先には世界の国々や
地球全部が広がり
その先には宇宙が広がり
つまり
果てしなく広がってゆく世界の
空間と時間を
手にしている・・ということです。
私たちが
意識で認識している世界
物理的視野に入る世界は
限定してしか見えないけれど
無意識のせかいと
その想念の中に広がる空間の連続性は
果てしない・・ということです。
私達は
その広々とした果てしない世界の
時間と空間の交叉する座標軸の中の
一点に生命を結んでいるが
しかしそこは
四方八方に自在に広がり
永遠に流れ、
過去と未来を行き来する可能性が
往来通過する一点でも
ある。
道元のいう
”全機現”とは
チャチな自分世界での全体では
ない。
自分を起点として
自分を遥かに越えた
果てしない大いなる世界へと広がると同時に
一点としての自分に収斂していく
壮大なる
全体の動きでもある。
まさに
それは古来からの
様々なる求道者たちが夢見た、
尽大地、
尽虚空の
すべてを凌駕包容する
仏道、
仏の世界でもある。
ひとつの種の中に
すべてが孕まれているように
わたし達の命の種のなかにも
自分の全体が孕まれ
自分が開花して行く。
そしてそれは
この世界
この宇宙全体の中に
孕まれて
命が開花してゆくということは
人間の命だけでなく
植物も動物も
また自然も星も
すべてが
生と死の
不連続に連続する
大きな
全機現の中にある。
つまり
人間の意識を取っ払い
命の属性だけでいうなら
人間の命もその大きな全機現のなかで
花や木や動物や自然と不連続に連続する
現象でもある。
私達は
意識という
限定されたフレームの中で
生きようとすると
それはホントウに
縛りにみちたエゴの
息苦しい世界であるが
しかし
意識を超越した
命の世界で生きるとき
もはや
人間という輪郭が取り外され
ただひたすらに
生きる・・・という
命の自立性の
無心と
無限の中に浮かぶ事が
できる。
意識を超越するとは
王常侍さんのように
「露柱もつかれた!」という
世界を
手に入れることです。
おおいなる
客観世界です。
人間世界という
合わせ鏡の中の
小さな小さな
自己完結の世界から
大きく飛躍していくには
合わせ鏡の中に
自分以外の他者や世の中や
世界や宇宙までもを
取り込み
そこから
自分を解き放つ作業が必要です。
それには
自我の支配する
ちいさな
ちいさな
人間のエゴの世界を
どう克服するかでもあります。
エゴの中には
対立と収奪しかありません。
その対立と収奪を越えて
不連続に他の命と繫がっていくとき
ひとりではない自分
不連続に繫がる
大いなる座標軸のなかの
結び目の
私がいます。
それはまるで
宮沢賢治の童話「インドラの網」の
天いちめんに張られた
帝釈天の宮殿の周りのネットの
結びめの宝石のように
お互いが映しあい
無限に輝くという世界です。
ここにある宇宙観は
すべてのものは関係しあい
お互いがお互いを映しあい
響きあい、
相似も相違も違和も混乱も
森羅万象すべてが
あらゆることがすべて必然であるという世界観のなかに
自分がいる・・ということでもあると
私は思うのです。
たいへん難しい話になりましたが、
小さな
ちいさな自分の殻を
脱ぎ捨てて
透明に輝く
自分の本来の命に
目覚めて
私も
はつらつと生きたいなあーと
思います。

一重のバラです。

