岩田慶冶著「道元との対話」より「露柱も疲れたか」?その3 |
王、「疲れました」。
陸、「馬も疲れたか」。
王、「疲れました」。
陸、「露柱も疲れたか」。
この問答で
王常侍が
「露柱もつかれた・・・。」と
はっと気づいた瞬間から
彼の意識の”閉鎖性”が取り払われ
大いなる客観性が生まれたときで
そこには
延々と解放された世界が広がる。
その閉鎖性が解き放たれたときから
意識は
自在な意識へと変化し
自己とは
すべてに投影される自分自身である事を
発見した瞬間から
自分は際限のない広がりの中にある。
それは人間だけではなく
ありとあらゆる
柱にも
用意された
お茶の中にも
庭の雀の中にも
晴れ渡った空の中にも
自分をとりまく
すべての中に
自分が写し出されているのだ・・という
覚醒が
おきたのである。
つまり世界は
我が掌の中にあり
世界に自分をどう注ぎ込み
どんな姿を映しこむかも
すべて
自分しだいであること。
さらに
その世界に現れる他の人間も
自分の意識が翻訳し映しこんだ
人間たちの姿であり
すなわち
みんな、
自分の分身であることが
分かってくる。
自分が変われば
世界も変わる。
自分に固執すれば
世界は
変わらない!
自分の世界を狭小な
自我の世界に閉じ込めているかぎり
そこには
自我と自我の対立と収奪しか
ありえない!
自分に都合のいい自分と
自分にとって都合の悪い自分が
他人の自我の姿を借りて
自分の中で対立し続ける。
自分が憎み続ける相手は
実は
他人の姿を借りた自分自身であり
自分が否定し続ける自分も
同様な自分である。
自分が受け入れる他人は
自分に都合のいい自分で
人間は常に
自分とだけ
向き合っている・・・・。
王常侍が
「露柱もつかれました。」という
悟性を獲得したとき
今までの
その息詰まるような
自己世界、
つまり
自分と自分が確執する世界に
ポーンと穴が開き
大きな客観性がうまれ、
小さな小さな自分の姿が
見えてくる
自分に固執する
”私が、私が”・・・という世界が
つき崩れてゆく。
”私”・・・は
ありとあらゆるところに
投影されて
偏在し
それは
私によって
自在に変化させることが
できる。
つまり
”私が、私が”・・・という
自我意識の番人、
その番人の
偏狭な防衛の意識を
取り去ったときこそ
なんともさわやかで
せいせいした清清しい意識の中に
生まれ変わるんですね。
あの夏目漱石が行き着いた
”則天去私”
自分を信頼し
自分の心に任せきる世界が
生まれてくるんですね。
人間は
人間が作り上げた閉鎖性の意識。
自我が取り仕切る
自分という閉鎖性の中にいる限り
意識は限定されてしまう。
意識、すなわち
自覚された認識は
無意識の海の中に流氷のように浮かぶ
自分認識の断片のようなものであり、
そこに大きくて
深く
鋭い
”客観性”を与えない限り
その断片を真実と
或いは
世界だと
思い込んで生きてしまいます。
しかし私達は
ほんとうは
無自覚の無意識の海のなかに
生きている。
岩田先生の素晴らしい言葉を借りれば
「非日常のなかに日常の時間が
影のようにゆれているのである。」
という
世界を
いきています。
そして
その無自覚な無意識の海のなかこそ
豊かな栄養も
資源もたくさん詰まっている。
「露柱もつかれました!」という
覚醒が
それは頭だけで理解したものではなく
体ごと
はっと
気づいた瞬間から
現れてくる
世界です。
ただね、
断っておきますが
私達はその事を
理解したからといって
直ちにそこへと到達できるわけではないです。
そこへ到達するには、
いくつもの煩悩の海
煩悩の山を越えなければならないです。
しかし
いつかはそこへといこう・・・・・と
自分の舟の舳先をそこへ向けること。
自分の意識は
たかだか自分の思い込みに過ぎないということ。
自我の要求に執着せず
その閉鎖性を常に開いておこう・・・ということを
”こころえていれば”
いいんだと
私は思います。
私自身もまだまだ
自我の汚れの中におり
自我にしっぽを捕まれては
迷い
動揺し
煩悩の海に浮かぶ
流氷です。
でも
自分の意識の世界など
たかが知れている・・・と
心得ておこうと
思うのです。
命の本質は
自他の境目を越えて
不連続に連続する
働きです。
私も
いつかは
自分という
狭小な容器を
脱ぎすてて
海に浮かぶ泡つぶのように
自在に
自由にいききれば
と
願っています。
そうなると
いいなあー!」

今日も朝から雨が降って
やっと梅雨らしく
なりました。

質問でございますが、昨年起きた、連続監禁事件のような、支配コントロールの事件の被害者についても、事象は自分の鏡という論点で、被害者自身の責任もあると捉えますか?
依存的に抜け出せなくなった側面もあるとは思いますが、それを凌駕する、強力な力があるような気がしています。
また、教えとしては依存と支配という思考を知り、気をつけていくしかないのでしょうか。
非日常ではなく、日常の真横にある事件に思い、日頃目に触れてますこちらより、質問させていただきました。
どうぞよろしくお願いしますm(._.)m

こちらのブログに出逢うことができまして、感謝の日々です、
岩田慶冶著「道元との対話」よりのシリーズに圧倒されおります。
dennshinbashiraさんはいったいどこまでゆかれるのかな~と。