賢治が書いた答え…プリシオン海岸の証明より・・・?? |
一週間前おきた質問に関する一件で
ちょっと私はがっくりしてしまい
以来なかなか言葉が下りてきません。
このブログではずーっと
私たちの深層心理を解き明かし
私たちが捉われている
・通俗的な想念や常識や
人間社会が作りだした秩序のための
規範などの
・既成観念に拘泥、呪縛されることなく
自分本来にある感覚、感性、直感をフルに働かせ
・決して自分を裁いたり、責任を追及したり
罪悪感などで自分をがんじがらめにせず
・自分の生命力がはつらつと
自由に、愉快に快適になるように
自分を解放し
・自分の人生は
自分で創造的につくりだしてゆくものだ・・・・と
もう8年近くも書いているのに
正直その
質問には
ほんとに
がっかりしました。
(でも、反応してがっかりする私は
とても人間臭くていいです…笑!)
それで
言葉が降りて来ない間、
これまで書いてきたことを
紙媒体にしようと
まず”宮沢賢治”のことから
その作業を始めましたところ
もうずーっと以前に書いた
”銀河鉄道の夜”の中の
『プリシオン海岸証明』という文のなかで
私が書いたことの中に
その説明、答えに近いものがありますので
再度のっけて起きます。
○
詩「春と修羅」の冒頭にある、
「わたくしという現象は」というように
人間は自分というものを絶対不動の認識のごとくあるように錯覚するが、
それは単なる時代の共通認識の産物で、実は、
刻一刻と変化する人間という現象に過ぎないと、いっている。
これは賢治の先見性の鋭さで人間とは、
人間という物質の中を、
生命エネルギーが通っているとき
その人間という物質は生きて活動するのであり、
エネルギーの充満が過ぎたときに、
「死」があると私は思っています。
そのエネルギーの管理をしているのが「脳」であり、
脳は「生命保全のために、自我を所有している」と
思うのです、。。。私は。
賢治は人間のあらゆる認識は相対的なものに過ぎず、
春と修羅では、その生命エネルギーを、
「有機交流電燈のひとつの青い照明です。」と言っています。
そして自分達が絶対・と信じているものも、
因果の時空制約のもとに感じているに過ぎない。としています。
たとえば2000年前には青空いっぱいに、
孔雀がいたと思われていたものが現代では
銀河系宇宙であると、証明されたように、
その証明をすれば、
単なる人間という現象においては、
いっさいが平等であり、
いっさいの序列、格差 優劣が無効化する。
その人間が単なる現象であるということさえ証明し、
人間から受容されれば、
人間は本当の幸せになれる・・・のではないかと
賢治は思い込んでいたのではないかと
私は思うのです。
ちょっとややこしくなりましたね・・・!
人間は自分で生きていると思い込んでいるが、
実は第四次元(ジョバンニが持っていた切符)から
送られてくる透明な宇宙エネルギーで
生かされているのに過ぎない!
そしてそれは人間の自我の意識の埒外にある・・・。
人間のさまざまな感情も想念も、
その生命エネルギーを保全するための、防衛の機関に過ぎない。
それは時にゆがめられ、汚された自我となる。
がしかし元は透明な電気エネルギーである・・・?!
だからすべての人間は自分も他者も、自我意識で縛りあうこともなく
貶めあうこともなく、平等に生きよう!と賢治は必死で訴えますが、
それが理解されるには時代が成熟していませんでした。
今の時代においてさえ、
このことを理解でくるものはほんの少数です。
。大変難解な世界に入っていきましたが、
賢治の本領はここを理解すると、大変わかりやすくなります。
今でこそ人間は自己幻想の中に生きているということが、
わかっている人にはわかっていますが、
賢治の頃には途方もない事でした。
がしかし老子、ブッダ、道元、そして
多くの思想家、宗教家には、
それがわかっていたふしがあります。不思議ですね。
ブッダなどは紀元前400年の頃にもう、
おおよそこれと同じような事を認識していたらしいから不思議ですね。
○
人間はお互いが
自我のレベルで争い葛藤します。
それは
自我自身が他者との対立軸をもち
対立を記憶の中に
持ち込むからです。
しかし
自我の汚れがだんだん取れていくと
自分をそのまま受け入れられるようになり
また
自分の自我と対する他人の自我とが
対立をやめ
とんがったものがだんだん平らに
なって行きます。
自分と他人が不連続に連続する
命の現象であることが
わかってくる時
やっと心の中に平安が
訪れてきます。
その平安をもとめて
人生があり
人生のプロセスにこそ
その答えがあると
私は思います。
ああー
少しずつ
言葉が降りてきましたね~!
やれやれ
では
また。

なんて情熱的なんでしょう
この花は!
復帰した職場の中で、こんなはずではなかったと、それでも、一日を、一週間をつないでいこうとしています。目の前のことだけに集中して、それを乗り越え、こなして30年の社会人生活を送ってきたのですが、なかなかかつてのように喜びに満たされた、日々は送れません。このブログからも、答えを少しでも見つけようともがく毎日です。マグノリアの木のような心境になれる火はいつのことなのか、その日が来るまで、また少しがんばってみます。

