伝心柱日記 |
もう一つ厄介なのが
”自我”の”我”っていうヤツです。
こいつが
いわゆる意識の中で”我”を張って
さまざまなる苦悩の
元締めですよ。
今、読んでいる法華経のなかで
お釈迦様が説いているただ唯一の解脱かなと・・・というのは
この”自我”の放棄ではないか・・・と
私は思うですが・・・・?ちがうかぁ~???
良くも悪くも私たち人間は
この”自我”を基軸に
さらにいうなら
捧げ持ち
それに依拠していきている。
しかし
それは
いつも自分対外部という対立軸の中に
自分を存在させているということでも
ある。
つまり
自分の”自我”と
自分以外の人間の”自我”達・・・という
対立の構造です。
人間は他者との関係で
さまざまな欲望や欲求を持ち
無意識のうちにそれを相手に要求していきているから、
その要求や欲求が
自分の想定通りなしとげられないと
そこに
苦しみや苦悩が起きてしまう・・・と
私はおもっています。
自分の行動と行為の結果はすべて
自分に帰ってくる・・というのは
つまり行動、行為という現象に対する
他者の反応がそこに起きているだけで
当然その反応の帰結は自分なのですからね。
その時
自分と他者との間には
深い深い断絶があるのだ…ということを
承知していない人間は
自分の想定外の結果に対して
苦しんだり苦悩したりするのですよ。
自分は良いと思ってやったことが
相手には
悪く受け取られた…というのも
自分と相手とは
まるで別物で
そこには深い断絶がある・・と言うことを
理解、承知していないから
そういう結果に失望してしまうのです。
相手は、そういう内容の人間なんだから
相手が悪いわけではないのですよ。
自分の見極めの悪さと
さらに
相手にたいする、自分の都合にそった期待を
していただけです。
人間の持つ
自分以外の人間や社会に対して幻想を持つという
その特性は
人生の道すがらで
次々と冷や水をかけれらる。
さまざまな挫折と苦労を通して
幻想が次々と崩壊していく。
なんでそうなるか・・・というと
やっぱり幻想は”欲”と”依存”なんだね。
自我というのは
私は人間の”生命”のセキュリティーと
して発生してきたと
思っています。
つまりこの世にうまれおちた
生命が
生き延びてゆくために
さまざまな危機に対応しながら
情報を記憶にプールし
自分を先導していくための装置・・とでも
いいますかね~。
まーそこに
愛情の飢餓意識が反転して
支配欲となり
それが欲望や、欲求に転化されて
幻想が膨らんでいったのかもなあ~??
凝りに凝り固まった
自我意識を持つと
もう
本当にその人間は
救いがたくなる。
特に
私は正しい、
私は悪くない
私はバカじゃない
私は偉い
などなど
この世の世俗的な価値意識が
張り付いて
他人とのあいだで
ニョキニョキと顔をもたげてくる
その人間のプライドとか
負けん気とか・・・。
私は
私は・・・というそれは
まさに
自己防衛の砦化した自我ですね~。
逆に自我から解放されてゆくと
よーく
人間のありさまが見えてきます。
苦しんで、苦しみぬいて
もう
こんな自分なんかいらないやあ~・・と
自我放棄が始まると
人間はだんぜん楽になります。
もっとすごいのは
自我が
崩落して、はじめて
新生な自分がうまてきます。
まさに目からうろこが
落ちる!!
まあ、
お釈迦様のいう
ただ一つの解脱の世界が
見えてくるかもしれないね~!
断っておくけど
よく俗にいう”あきらめる”ということとは
違うんだよ!
あきらめる・・というのは
自分の欲とか欲求の幻想を
あきらめる・・・ということで
欲はまだ持ったままの状態なんだね。
そうではなく
他人に対する、社会に対する
欲や欲求そのものが
自分のエゴ、つまり
自分の自我の飢餓意識の反転であり
欲そのものを
捨ててしまう・・・ということが
解脱なんだと
わたしゃー思いますけどね。
他人への執着が抜けるとともに
自分の欲も抜けていくし
人間の卑小さも見えてくる。
自分も仕方ないけど
他人も仕方なかったんだ・・・・!
人間ちゃーそういうモンだと・・ね。
だから
つまりは、
双方の関係そのものに
お互いのご都合的な幻想が
あっただけさー・・・というように
自我が覚めてくると
自分が悪いんでもなく
他人が悪いんでもなく・・・という
人間と人間の間にある
深い断絶が
見えてきますよ。
それがみえてきて初めて
あの
「露柱も疲れたか・・?」
「露柱もつかれました・・・」ということの
リアリズムが
理解できるのだと
思います。
ああー
私もこの自我の我を
どんどん
お掃除しよう・・・っと!
暑いねえ~!