伝心柱日記 すべて自分の中にある。 |
もうお分かりだとおもいますが、
自分の苦しみや辛さは
自分の中で起きている
自分と他者との対立です。
だから
自分の中を整理し
お掃除し
その対立軸を解決、あるいは
乗り越えていくと
生きることは
格段に
生きやすくなります。
自分の中に起きる
不安や恐れも
他人や社会との関係によって
自分の中に抱え込んだものに
自分がたじろぎ
恐れているに
すぎません。
つまり
自分の生育の中で
押しつけられ
思い込まされ
更に
脅されたものが
自分の脳と体のイメージに
張り付いていて
自分の中から自分を
おどしているに
すぎないのですよ。
逆に
自分が享受した
楽しいことや
嬉しいことは
さして
その人間の危機にはなりませんから、
心のなかには残らず
すぐ風化してしまうんですよ・・・苦笑!
つまり
その命が危機をかんじたことが
強烈に記憶されていくのですね。
そして
世の中には
さまざまに
いろんな人が生きています。
しかし
自分がしっかり
自分を生きていれば
そうそう
他人に侵入、侵食されることは
ありません。
他人に侵入されたり
介入される人は
ほとんどが
他人や社会に依存があり
甘えがあり
その
自分の心のスキに
そういうものが
入り込んだり
付け入ったりするのです。
逆に言うと
依存や甘えは
他人に介入してください・・と言わんばかりの
メッセージを発していると
いうことです。
自分の自我が苦しいのは
自分が不自然な生き方をしているからです。
だから、苦しいとか
辛い・・・というのは
自分を取戻し、
もっと
楽にお生きなさい・・という
自分が自分にだしている
SOSでも
あるんです。
その時、
もしその人間が
身動きできない・・・というのなら
自分が捉われているものを
点検する必要が
あります。
それは
自分と他者との関係で
自分が捉われているもの
自分が社会との
関係で
捉われているものに
気づくひつようが
あります。
その社会・・・というフレームの中で
生きようとする人の多くは
自分と他者との関係において
多くの人間が持っている
常識的なことや
罪悪感や
関係を円満にするために
意識的に取っている行動が
まるで有効であるかのような
錯覚をしています。
たとえば
他人とは仲良くしなければならないとか
親切で良い人間であらねばならないとか
また社交術がひつようだとか
コミュニケーション技術だとか
さらに
常識とか
規則とか
倫理とか
そういうものが
人間関係を決定している・・・と
錯覚している・・のですね。
しかしねえ~
人間のほんとうの交流は
そういう表面的な意識的なものでは
ないんですよ。
人間はお互いにあった瞬間から
自分の無意識が作動し
相手を観察しています。
ほとんどの人が
そういう自分の無意識の働きに
気づいていませんが
そういう風に無意識は
作動しています。
そしてさらにいうと
相手の真実の姿より
自分の無意識という
というフィルターをとおして
相手の姿を
見ているのです。
だから
そのフィルターが汚れていると
相手の姿も汚れて見えます。
自分の無意識領域に
不安や恐れがあると
相手も
その不安や恐れのフィルターをとおしてしか
理解できません。
だから
自分が反応してしまう人間と
まるで
自分の中になーんの反応も起きない人間とに
瞬間的に
分れるでしょ・・・・・。
反対に
自分の無意識が,澄んでいると
さほど相手にたいして
恐れたり
疑ったりはしません。
もっというと
人間の外見や容姿やその人間の社会的地位や
貧富なども
無意識にとっては
本当はあまり関係なく
その人間をみています。
無意識は瞬間的に
その人間が
自分にとって何らかの
魅力的な内容をもっているかいないかを
すべて、
”自分の水準”でもって量っているはずです。
しかし
無意識が汚れていたり
偏ったものがあったりすると
その無意識のセンサーにゆがみがでて
外見とか
容姿とか
社会的な地位や
貧富に
惑わされて
相手を判断してしまいます。
無意識の目が曇り
俗性に操られて
しまうのですよ。
でもねえ~
そういう場合は
かならず
しっぺ返し・・・を受けるでしょう。
所詮、そういう
関係は必ず、破たんするのですよ・・・・。
破たんする・・・ということは
目を覚ませ・・・ということでも
あるんですね。
つまり
人間の出遭いとは
無意識と無意識の出遭いで
反応が起きているのですね。
自分の無意識にある
ほんとうに優しくて
やわらかくて
正直な自分で
他人と向き合った時
はじめて
他人もその自分に反応してくれます。
それが
自分が付き合うにふさわしい人です。
しかしそのとき
他人その人の無意識が汚れていたり
傷が深いと
その人は正直に反応しないことも
多々あります。
それは
自分にふさわしい人では
ありません。
冒頭に書きましたように
自分に起きることは
すべて
自分の中が
外に
反応しているのです。
だからこそ
自分の無意識を
お掃除する必要があります。
お掃除するとは
辛いことや
苦しいこと
不安や恐れが起きたら
それを手がかりに
自分の内面を
ごまかさずに
よーく見渡すことです。
この
ごまかさずに・・・ということが
とても大切です。
人間はどうしても
自分がみたくないもの
気づきたくないことを
なかったことする・・・という
意識偽装をしますから
自分をごまかさない・・・ということは
とても勇気のいることなのです。
自分の内面をしっかり見つめて
はじめて
自分は自分の心にある
何を解決しなければならないかが
わかってきます。
また
自分が捉われているもの、思い込み
そして
比較や序列という
もっともくだらないものを
捨てて
お掃除する。
人間は断絶を介して
繋がっている。
つまり
人間は、ほんとうは
すべての人が
孤高を
いきているのです。
繋がっているというのは
幻想です。
だからこそ
自他の分離
つまり
自分と他者とは
まったく別ものの世界を持ち
その人間は
その人間特有の世界観でいきている・・・という
明確な認識が必要です。
そういうまなざしで
いつも他者を見る。
そういうまなざしで
自分も他者をも
見ることができたとき
それが
自立(自律)です。
自立(自律)とは
自分は
なにものにも
浸食されず
わが道をゆく・・・・。
次回は
自立することによって
起きる
善き(良き)ことについて
書こうと
思います。


真正面に光を受けて
その強さが
いいです。
素敵です。

「言葉は話された(離された)時には、すでにそこにはその人の“人格”はない。良しにつけ悪しにつけ“独り歩き”を始める」
残念ながらその方との繫がりは途絶えてしまいました。が、その言葉の持つ意味は私なりの解釈の下に“血肉”として私の中に取り込まれていると思っています。
その言葉に“悪意”を感じるか、それとも“善意”なのか。
たぶん“独り歩き”している言葉には、“罪はない”ものと思います。
