人生を解決する・その22、いい人を辞める・私へのエール! |
私が
私自身にエールを送るために書きました。
実は11月3日書いたブログ「・いい人を辞める」について
昨日は、それを一度載せたのですが、
あまりにも激しいかなと、思い
今朝、削除してしまいました。
しかし、削除した瞬間に、
そういう行為は
わたしがわたしをディスカウントしたことであると
思い直し、
もう一度載せることにしました。
その私の
心理的推移を
書きます。
私の弱さは、
人がいいいことです。
他者の感情の痛みに対して
過剰に反応してしまうことです。
それはその人間が傷つくことの痛さが
自分の痛さのように感じてしまうことです。
でも
それは自他の分離ができ切っていないことでもあります。
わたしは、この弱さにいつもなやまされます。
それが裏返ってしまうと
無駄な包容力となって
更に自分が苦しくなっていきます。
なぜ自分が、そのようなメシア症候群から
抜け出られないかというと
そこには三つの問題点があります。
ひとつは、いい人・・・という自己イメージが
自分の中で崩れることへの恐れです。
つまり
私は他者からいい人と思われたいのですね。
そして二つ目は
私の中の既成観念(思い込み)です。
喧嘩をすることや
激しい怒りを放つことは
人間としての人格が劣る、
人として成熟できていない・・・という
既成観念(思い込み)です。
そして最後は
激しい怒りや感情を放出することで
人びとの心が
わたしから離れていく・・という不安です。
ずーっと自分の自立を考え続けてきた私ですが
この3点が、
なかなか克服できないのです。
原因は
私自身の
人間への信頼が足りません!
自分が渡らなければならない
最後の橋かも
しれません。
そしてもう
この3点も
捨てちゃおうと思います。
橋を渡りましょう。
私は私でしっかりと自分を抱きしめ、
仁王立ちして生きていこうと
思います。
だからもう一度このブログを
載せることにしました。
それは私の怒りでもあり
嘆きでもあると同時に
私の決心でもありますから。
〇
『 人生を解決する その22 いい人を辞める!』
先ほど私はコメントをひとつ削除しました。
いったんは承認したのですが、
やっぱり嫌だなあ~と思い
嫌なことは嫌でいい・・と思い直して
削除しました。
そのコメントは非公開で来て
私の文は、曾野綾子と瀬戸内寂聴をたして2で割ったような文で
自分は曾野綾子が好きで励みに読んでいる。さらに
自分のコメントが気に召さない時は削除してもいい云々という
コメントでした。
(削除していいコメントなんか、初めから書くな、甘えるんじゃない!)
このコメントをもらった時は
困りました。
困ると同時に不快でした。
その人は
私にくれたコメントと同じようなものを
曾野さんや瀬戸内さんにするのでしょうか?
たとえば曾野さんに
「あなたの文はdenshinbashiraさんと瀬戸内さんを足して
2で割ったような文」だと
コメントできるのでしょうか・・・?
どうぞ同じように
曾野さんや瀬戸内さんにも
やってもらいたいものです。
その人自身は気づいていないかもしれませんが
そこには、
私がそういう有名人ではない・・という
無名の私に対する
無意識の
見下しがあります。
そして
じつは、私はこの手合いの人に
何度も嫌な目にあっています。
その無意識の中にある
見下しに
ホントに嫌になりますがでも
いつもヤレヤレと
こころを立て直してそれでも向き合ってきましたが・・。
こういう人の頭の中には
潜入観念として
世の中で有名になった人間と
無名の人間とで
序列があり
ヒエラルヒーがあり
いつもそういう視座にいて
ものごとに
自分の感性や価値感でも向き合えない人間です。
例えば優れた人間でも
白衣を着ていないと、無意識に見下すが
優れていない人間も
白衣をきていると、瞬間的に一目を置く…という風に
自分の目と知性で見極めることが出来ない人間です。
自分はどうなのか・・ということが
抜け落ちていて、
いつも他人の言葉で生きている
自分がない人間です。
そのくせに
私に対しては
上から目線でみおろしている。
だから、何も肩書きがなく
ただのおばちゃんだから、
平気でこういうことをしてしまうのでしょう。
でも、その深層心理には
無名人である自分のことも
見下している(ディスカウント)があり
だから
私も同レベルの人間だと思い込み
見下しているのです。
こういう人は
その人間が無名な時、
例えば
賢治が生きているときには
変人として扱い
ニーチェが生きているときには
狂人として扱っておきながら
しかし
いったんそこに世間的認知が起こり
有名になると
とたんに手のひらを返し
称賛したり
賢人化したり
偉人がしたりして
敬います。
なぜそうなるか・・・?
そこには
自他の分離ができていないために起きる
心理トリックがあります。
自分と言いう実態が希薄なため、
有名人と自分が
あたかも同じような錯覚に陥っている。
つまりファン意識です。
曾野さんや瀬戸内さんに
共感する自分を
一体化させて、錯覚を起こしているのです。
その本を読んでいる自分、
共感している自分が
曾野さんや瀬戸内さんと同じ意識水準であるかのような
錯覚です。
自分がないひと
自分に自信がない人ほど
そうなります。
この心理は自他の分離ができていない人間の
特質です。
自分がないため
作家たちと自分の間に
それぞれの自立した距離があるはずなのに
それがないのです。
自他の分離ができている人間は
それぞれの人間にきちんと向き合って文章を読みますから
それぞれの人間、つまり
曾野さんにも、瀬戸内さんにも
きちんと自分の尊厳をもって彼女たちの尊厳に
きちんと向き合い
きっと私のブログも
そういう意識水準で読んでくれると
思います。
そこには
作家と読者との対等な関係があります。
つまり
作家の差し出した文の内容に
自分の考えを向き合わせながら読んでる
まずは、自分というもの
自分の考えというものが
自分の基底にきちんとあるのです。
その前提で読んでいるのです。
自他に分離ができていない人間は
世の中で売れていようが(認知されていようが)
売れていまいが
そんなことには関係なく
自分の目でみて
自分の頭で考え
自分の体と感情で
受け止め精査するという
自立したものを
持っていない人たちです。
私は
曾野さんや瀬戸内さんに負けないくらい
真剣に集中して
毎日書いています。
そこには
書く意義と価値があると思い
神経をすり減らしながら
全力で書いています。
もっというなら
世の中で大衆的に売れている本は
その文を
小学生でも読める水準にしており
新聞もだいたい小学3年生くらいの読解力でも
読めるような文章で書くというのが
鉄則です。
だからきっと曾野さんも瀬戸内さんも
プロの作家としては
そういう水準を頭に置きながら書いておられると
思います。
私は瀬戸内先生とも若干の縁があり
曾野さんは同じキリスト者として
尊敬もしていますが
おふたりとも
もう
とてもしたたかモンですよ。
だからこそ本が
売れるのですよ。
そして買わされている。
しかし
私は全くそんなことは考えていません。
以前に比べれば、
なるべくわかりやすい言葉で書こうとは
努力していますが
しかし、
自分の子供も含めて
私の人生をかけて解明していったことを
残しておこうと思い
書いています。
だからこそ
「遺言」といいうタイトルです。
わかりやすいということは
ものごとの認識を
あさい、安易なレベルにしてしまう恐れがあります。
洞察が深く
深慮が広く深くなればなるほど
それは
難解になります。
でもその難解さを越えて読んでくれる読者と
私はつながりたいと思って書いています。
それはここにきて
私ときちんと向き合って読んでくださっている方々が、
広範な不特定多数の
貌のない人々ではなく
私の文章を
慰みものとして
浪費していく人々ではない
人びとを
思い浮かべながら書いています。
そのことは昨日のブログに
私のささやかな使命感として
書きましたね。
最初、このコメントを承認したのは
そこに私の弱さがありました。
その人は悪意があるわけではなく
ただ、そういうことを書くということは
失礼なことであり、
甘えなんだということを
しらないだけであり、
まあ、めくじらをたてることでもないかあ~と
なんだか、
鷹揚な自分でいようと思いましたが
でもそれは、
今の私の
正直さではありません。
いい人から抜け出られない私の弱さであると
思います。
だから
削除しました。
私は決していいひとでは
ありません。
わたしの好きな良寛も
とっつきにくい気難しさがあり
時に意地悪だったと思います。
無名だからと、自分が軽く扱われるたびに
私も
そういう意地悪を
解禁したいなあ~と
この頃はよくそう
思います。
だからそうなります。
もう、
軽々しく扱われることには
NO・・・です。
自分の内面が深くなればなるほど
他者の中の心理の深淵が見えてきます。
そういう人は
こういう軽々しい言葉を吐きません。
そういうことも含めて
私の難解な文と世界を読んでくださるひとびとに
感謝し
向き合っていきたいと
思います。

全身で光の中に
いようね!