人生を解決する・その23、天下の大バカもの! |
その時、
やなせ翁がたくさんの漫画のキャラクターを
無償で地方自治体へ提供しておられたことで
漫画家の吉田戦車さんが
憤慨されていました。
おそらくやなせたかし翁はもう
お金などというものを
超越されておられて
だから無償ということもさして
気に留められなかったのだと
私はおもいますが、
吉田戦車さんは
そういう翁のおおらかさに
つけこんだ・・という
役人の甘えについて
憤慨されていたのですね。
しかし、後日吉田さんが
たとえそうであっても
その人々も
やなせ翁の死を痛み悲しんでおられると気づき
ご自分のことを
訂正されました。
うちの娘もいわば売文を稼業にしており
そういう無償で作品を渡すということは
どうなの?と
訊きましたら、
本来は依頼者はちゃんと報酬を渡すべきで
それは同業者や後進の漫画家の困惑を産んでしまうと
教えてくれました。
まあ、無償ということは
それなりの問題をはらむということでも
あるらしいです。が
それはそれとして、
私はおそらく
やなせ翁は
依頼者である地方自治体や
役人たちのそのむこうに
大衆の姿を見ておられ、
自分の作品を愛してくれる大衆、
民衆へのギフトとしてのキャラクターを
描かれていたのだと
思います。
そこには
やなせ翁のご自分の作品に対する
熱い愛情と信頼があり
さらに同じように、
それを愛してくれる
大衆、民衆に対する
ゆるぎない信頼と愛情を
持っておられたのだと
思います。
今日書こうとする人物は
その真逆の行動と精神の人間です。
彼の行動は、
大衆・民衆を信頼するどころか
大衆も自分さえも信頼できず
みくびっているために
ほんとうに愚かな行動を
とってしまいました。
私は山本太郎という俳優が好きでした。
俳優としても、
「各駅停車の旅」のタレントとしても
正直で、まっすぐな爽やかな
山本太郎氏には
好感をもってみておりました。
しかし、
彼はその俳優というとても大切な業を
いとも簡単に投げ捨て
国会議員になってしまいました。
なぜでしょうか・・・?
私に考えられることは
山本氏自身が
自分を信頼できず、
さらに他者をも信頼できず、
自分を選出してくれた選挙民をも
信頼できず、
だからこそ原発問題を
権力でもって解決するしかない・・と
思い込んだからではないでしょうか。
原発事故はほんとうに
私たちのいきていることをを脅かす
大変なことでしたが、
それをどのように解決するかについては
エネルギー問題の解決をも図らなければ
解決のビジョンが見えてきません。
それは現代社会とその産業を包括する
大変重要で困難な問題を
孕んでいます。
そのエネルギー問題を解決するということが
一筋縄ではいかない
大変な障害として
私たちの社会の前に
立ちはだかっているのですね。
だから
原発の問題は
その解決も含めて
私に言わせれば
今はまだ
始まったばかりのことです。
つまり多くの国民は
原発を廃止することが出来れば
すぐにでも廃止したほうがいいに決まっていると
思っていると思います。
ただ
物事がそう簡単にはいかないのは
現実の問題が複雑にあり
それが解決しない限りダメなことも皆が
現実的に
わかっているからです。
そして
今、国中のみんなが
それぞれに思案している最中だと
私は思います。
それぞれがね・・・・。
その解決の展望が見えてくるまで
誰もが、
今は暗中模索の中にいる。
それは安倍総理だって同じでしょう。
かれこそ
現実的な問題との狭間で
どうしたらいいのかわからないで
とりあえず全廃には踏み切れないのでしょう。
小泉前総理がいうように
簡単にはいかないないのが
安倍さんの現状でしょう。
しかし
山本氏には、
そういうことは見えていないのです。
なぜなら
彼こそが権力志向をする人間だからです。
権力志向の人間が
裏返って
反権力になっているにすぎないからです。
今回の天皇にたいするスタンドプレーを
好意的に見れば
正義感に駆られて
やってしまった・・・というのでしょうが、
私はもともと
山本氏のなかには
権力志向があったのだとしか
思えません。
彼のことを感情的に揶揄するということでは決してなく
そう考えない限り
今回のかれの行為が
腑に落ちないからです。
理解できないからです。
なぜなら権力志向をしない人間は
まずは
権力に依存することも
権力を利用することも
思いつかないからです。
つまり意識がそこにいかない。
権力による解決を図ろうとする人間は
権力以外の解決があることを
思いもつかないから
権力的解決へと短絡していくのです。
逆に
自分が在り、
常に自分のなかでの解決を図る人間は
問題が自分の中で熟していくことを
知っており
同じように
自分以外の人間も
そういう風に、
その人の考えが熟していくであろうことを
理解できるから
その熟していく時間を待ち、
考察を継続しながら
解決へと図っていきます。
権力志向する者と
しない者との
決定的な違いは
自分に対する信頼があるかないかです。
自分に対する信頼がない人間は
不安と恐れに満ちており
それが反転して支配的になっていきます。
これは独裁者たちの共通の心理です。
自分に信頼がある場合は
自分以外の他者への信頼もあり
それぞれが
それぞれに考えてゆくこと
解決してゆくことへの信頼があり
だから、
自分一人で問題を背負い込むこともなく、
短絡的に個人プレーに走ることもなく、
全体が全体として解決してゆくことを信頼しているのです。
そこには
その集団を構成する成員に対する信頼があります。
早急な行動に走るのは
山本氏が追い詰められているからです。
なぜ追い詰められるかというと
なんでも、自分の力だけで
解決しようとするからです。
つまり
他者が信用できないのです。
更にそこには
自分が特別の人間であろうとする
自意識が働いています。
自分が特別であるから
特別でない人間たちを
信頼できないのです。
もしかしたら、
彼が俳優をめざし、
俳優になった深層心理にも
自分が特別な人間でありたい・・という
自意識が働いていたかもしれませんね。
なぜなら
俳優という職業を
彼が自分の生業であると確信していたら
やたら政治のことなどには目がいかず
原発の事があっても
それに反対していても、
自分のもっとも大切な俳優業を
手放すことはないだろうと
考えられるからです。
たとえ一時的に干されることが発生しても
俳優という自分に信頼を起き
俳優の道で励み、成功していたら
一時的な墜落があってもやがては
大衆はその演技力を求め
また俳優としての自分への信頼は
やがては
自分を復帰させていくエネルギーになるからです。
つまり
俳優になりたくて、俳優が好きでたまらない人なら
そのことを貫いてゆくだろうと
考えられるからです。
貫かずには
いられないと思いますよ。
しかし
彼にとって俳優よりもっとやりたい仕事として
政治家としての自己イメージがでてきたのなら
それはおそらく
政治家のもつ属性としての権力志向を
初めから彼はもっていたのだろうと
私は思います。
つまりそれはただの市民ではない
権力をもつ
特別の人間としての自分像と一致したのだと
思います。
だからこそ
政治家(特別の選ばれた人間)としての焦りが
さらに政治家の上に天皇があるような錯覚におち
直訴したのではないでしょうか。
ほんとうは選挙権もなく
すべての権力を放棄している天皇を
そう勘違いし
直訴にいたったのでしょう。
今、原発の稼働を巡って
国民が割れているのは
現実的なことをどのように解決するかの
”めど”が
立っていないからです。
何を優先したらいいか、
なにをどのように解決していくかが
見えない限り
どうしていいかわからないという不安の中に
国民の誰もがいるからです。
考えの深い人間は
そういう人々と同じ輪の中で考え寄り添うでしょう。
今の日本の国民の多くは
みんなに
無意識に
寄り添いながら
誰もが
賢明に考えているはずなのです。
しかし
そういう国民のきもちや不安に寄り添えず
理解もできない山本氏は
権力の力でしか解決できないと
おもっている。
だからこそ
国会議員という権力を志向し
さらに
天皇という権力へと依存しました。
もちろん天皇は
決して自分が権力を握ってはならないことを
骨のすみずみまで
知っておられる。
そして日本の天皇は
権力者どころか
ご自分の市民権はすべて放棄しており
自分の役割としての
国民への使命感に満ち満ちておられ、
ほんとうにその姿は
公民への奉仕そのものです。
山本議員の幼稚な自意識は
深い考察も思慮もなく
その天皇へ自分をアピールする・・という
独りよがりな
愚かな行為へと収斂したのでしょう。
その本質には
権力を志向し
天皇を政治利用しようとした
旧日本軍の軍部軍人のものと
同質のものを
感じます。
山本議員も
旧日本軍の軍部も
そこに在るのは
強烈な自己否定です。
強烈な自己否定は
その不安が裏返ると
強烈な支配欲になります。
自分を信頼できず
自分に自信がないから
権力に依存しよとするのです。
そこにある不安を解消するために
自分と天皇との疑似的な一体化を測るのですね。
山本氏も、
ほんの少しでも天皇からの
良き反応や言葉を得たら
それだけで、自分が救えわれると同時に
その支配欲や自意識が満たされるでしょう。
そうら見てごらん
天皇だって私とおんなじ考えさ・・・とです。
しかし賢明な天皇はさらりと手紙を退け
反応すらしませんでした。
さすがです。
それこそ、体の隅々まで
ご自分のなんたるかを知りぬいた人間だからです。
ご自分を貫き通している人間だからです。
動じません。
しかし山本氏は、自分を貫くことさえできず
さらに
自分を選んでくれた何十万という
大衆への信頼もなく
また
一緒に考え解決していこうという
共感すら、提示できず
時を待ち
自分が政治力を付けていくこともせず
代償を払いながら
時を熟させていくこともせず
つまり、
土を耕し種をまき、芽を育てていくこともせず
速効的な
結果だけを追い求めています。
ちなみに
政治が変わればすべてが解決するということは
有り得ません。
政治を変えるということは
制度や法律という
社会の外側のフレームを変えるということです。
そこに法的な強制力もあるけれど
しかしその制度や法律の内実を作っていくのは
国民一人ひとりです。
実際その制度とフレームを
実効化していくのは
民衆や大衆の力です。
そのフレームのなかでいきている
私たちひとりひとりの人間が
その内容をどのように変えていくかということです。
たとえば
言論の自由があっても
国民が言論の自由を実行していないかぎり
その制度も法律も
何の意味を持ちません。
逆に言論の統制をしても
国民のひとりひとりが
その制度を逸脱して無視してしまえば
それも内実はもぬけの殻となります。
歴史的にもさまざまな権力者や
独裁者が出現し、
今もそういう独裁の国がありますが
それでも
大衆はそこをかいくぐりながら
生きぬいています。
いずれ
その独裁も民衆の力の前に崩壊していくでしょう。
だから
国民が
民衆が何を考えているか・・ということが
とても大切なのです。
そしてこの日本では
多くの国民が、
いや
ほとんどの国民が
できるなら原発を廃止したいと
思っているでしょう。
実はこのことこそが
とても大切なことです。
みんな、国民の誰もが
そう思っているが
今は
その方法がまだみつからない・・・ということこそが
とても大切で
だからこそ
誰もが、
たとえば
原発に依存している企業だって、
いずれは
そこから脱したいと
本音では思っていると
思います。
ただ
どうしていいか
方法がみつからない!
しかし
人間がそう考えている限り
必ず
いつかは
その方法を見つけ出すでしょう。
考え出すでしょう。
人類はいつもそうして
最悪のときも
生き延びてきました。
つまり
今、必要なことは
日本人がそれぞれの自分の知性を信頼し
みんなで
原発依存からぬけだすために
なにをしたらいいかを
考えることです。
その内容を変えてゆくには
時間と手間がかかります。
幸いに
階級社会でも
階層社会でもなくなった今の
大衆社会の日本は
政治が
上から強権的に変えていくことは
できません。
しかし
大衆社会が
じっくりと
成熟してゆくなかで
ゆっくりと変容していきます。
その大衆の質というのが
とても重要なんです。
もし日本の大衆社会が
原発を望むというなら
そういう方向へとすすむでしょう。
しかし
心ある日本人は原発事故の恐怖も痛み
ちゃんと受け止めたはずです。
だからこそ
いずれは
原発を乗り越えると
私は確信しています。
今、リーダーたちに必要なことは
大衆社会の土を耕し、種をまき、芽をそだてて
やがてそれが、大きな変革へと
質的な変化を経てゆくように
緻密に戦略的に
原発の問題考え
問題を提示してゆくことです。
変革には
緻密な戦略的計画と
時間とが
必要です。
そしてそこには
それをなしとげていく志と
忍耐力と持続力が必要です。
速効的ではないが
出た結論は
永続的な幸福をもたらすものでなければならない。
だからこそ
時間をかけて
この大衆社会という怪物が
のっそりとゆっくりと
変容へと動き出すまでの
インターバルを
作っていくのです。
もっとも大切なことは
自分への信頼と
さらに共感している人々への信頼です
目に見える人びとも
めには見えない人々も
その人間としての尊厳と正しさを受け入れてゆく。
それはお互いが生き延び
この日本という国が
生きのびてゆくために
大切な大切な人間の絆を
創りだすためにです。
リーダーのスキルとは
そういう人間への信頼が
常に良きことの最優先を直感させ
誘導していきます。
つまりそういう信頼が欠けている人間は
どんどん独りよがりに陥り
常に追い詰められ、孤立感が募りそういう中で
行動が
先鋭化してゆき
個人プレーへとなってゆきます。
自分への信頼がないから
他人も信じられず
あがくのですね。
大衆は少しずつ熟してゆくのだということが
理解できない。
それはいつも
自分を熟させてゆくことよりも
短絡的な自分ばかりを
選んでいるからです。
今年の春
川越の美術館で、アンパンマンの原画展がありました。
戦争を体験したひとりの老人が
子供たちに、
そして大人たちに
そのメッセージをか描き続けたその原画を見ながら
私の中には
静かな静かな感動がありました。
ひとつのことを貫いて
貫きとおしていったその先には
そのことだけではなく
全てのことに通じる世界が
開けてきます。
もし、山本太郎さんが
俳優としての自分を貫きとおしていったなら
そこに俳優としての自分が輝き続けていたならば
おそらくその時
誰もが彼の話に耳を傾け
その言葉を
固唾をのんで待ち受ける時がくるかもしれませんでした。
その時こそ
自分の力で
自分の言葉で
自分の行動で
自分が一番大切だと思うものを
人びとに
確実に
わたすことができるでしょう。
今回のことで
自分がいかに
大バカもので
そこには
権力志向するエゴイストの自分しかいないということに
気づかれたなら
きっとその先が
開けてくると思います。
ただ
気づかなければ
そこで終わりと
いうことでしょう、
ざんねんですが。
私たちの行動の奥には
深い深い無意識的な動機が潜んでいます。
そのことに気づく時こそ
自分が自分を取り戻す大きなチャンスだと
私は思います。

いよいよ君たちの出番の時がl来たね!