人生を解決する・その27・固定観念から脱出する!その2 |
集団で生きるという事と
自分という”個”を生きるという事とを
”止揚”するということで
これまで生き延びてきました。
止揚・・ということは,
二つの矛盾するもの、或いは
相対するものを
◎高次元で統合する・・ということです。
実はこの”高次元で”と言うことこそが
とても重要なのですが、
社会の実体は往々にして
・低次元で縛り合う・・・という事が
横行した、人間社会となっています。
◎高次元で統合する・・・ということは
双方が、解放された次元であり
双方が成長する解決の次元でもあるのですが、
それには、感情に捉われず
高い知力や知性の考察が
必要で、
その時、自分の自我の在り様を
見つめる必要があります。
しかし、自分を突き離し
客観的にみるという、厄介なことを放棄した人間は
縛り合い、貶めあい、ブレーキをかけるということのほうへと
走ります。
その原因となっていることについて
ちょっと飛躍するのですが
私は、そのひとつが
・人間が創造性を失いつつあるからではないかな~と
思っています。
そしてもう一つの原因は
集団と個を止揚できないために
個々の人間の内面に内在する
・不安と恐れが個々に局地化しており
それが個人の中で進行しているのが
現代ではないかと
おもっています。
つまり、テレビの出現以来社会が
・情報社会へと移行する中、
これまで以上に多量の情報が飛び交い
入手できることが逆に
これまでの、個々人が
◎体で収取したなま情報で生きるのではなく、
観念的な人間、頭でっかちの人間を創出してゆき
人間の生きた関係がどんどん疎外されていっているように
思えます。
その人間たちの内部で、
観念化されている恐怖や不安が
実体験をしながら克服されていくのではなく、
観念の中で処理されてゆくために
その観念があたかも社会の実態のように勘違いされて
その人間の内部で蓄積されていく。
そういうことが
個々の人間の内部において進行している・・・・のではないかと
私は思っています。
また、
人間が創造性を失いつつあるというのは
便利で清潔な社会では、当然のごとく人間の創造性は
退行していくからです。
日々自分が知恵使い、工夫をして生きるということが
必要なくなるからです。
与えられたもので十分まかなえる日常は
もしかしたら、人間の心理的荒廃の温床になる可能性があると
私は思っています。
人間は常に、
ワタクシとワタクシ以外の人間とを
止揚しながらしか
生きれません。
その時
◎高次において統合するためには
自分と相手との客観的関係を検証し
知恵を使い
考察して
解決してゆく・・・という
創造的作業が必要ですね。
その創造的作業を放棄していませんか・・・と
私は思うのです。
人間そのものも、常に変化していますし、
その人間がつくる社会も常に変化しています。
そういう変化の中で
それを高次に統合していくには
創造力がとても大切です。
しかし
その創造力を放棄した人間たちが
その安直さで行き着く先は
疑心暗鬼にみちた
自己防衛の砦の中に
自分を潜ませていきることです。
自分の殻に閉じこもり、
自分の感情にしがみつき
自分を高次元へとジャンプさせることを放棄した人間は
自分のおもいこんだ事(固定観念)にしがみつき
疑心暗鬼に囲まれながらも
◎その自分の疑心を
疑わない・・・というピエロになってゆきます。
おかしいねぇ~!
でも、その根本的な原因は
遊ばなくなった子供達
子供から
自由な遊びをうばった社会だと
私は思っています。
管理され
見張られて育った子供達が
自由を創造性を
奪われてしまっからだと
思います。
生きることは
創造の遊びのフィールドに自分がいるということで、
つまり
日常のすべてのことの中に
創造的遊びをみつけることこそが
家事をするにも、ご飯をつくるにも遊びや工夫をする
仕事をするにも、書類一枚つくるにも、売るための方法を考えるにも
いつも、創造的な遊びをしながら
日々新しく
オモロく生きる極意ですね。
頭を柔らかく、柔らかくするために
既成観念や固定観念から抜け出して
自由、自在になりましょう。
ほんとに
自由で奔放で
いいんですよ!!
自由自在に生きている
そういう人たちと出遭え
遊べたら
ホントに面白かろうと
思いますよ!

遊ぼうね!
〇 伝心柱ライブラリー
映画「流・ながれ」と「小さな学校」DVDをギフトいたします。
〇 映画「流・ながれ」と
映画「小さな学校」のDVDを
このブログを読んでくださっている方で
ご覧になりたい方にギフトいたします。