こころに沁みるイエスの言葉・狭き門より入れ、その2 |
究極は、
「自分を捨てる」ということに尽きると
私は思っています。
「自分を捨てる」というのは
自分の自己否定、全否定です。
自分が、自分がと
頭をもたげてくる
自己顕示の意識です。
その自意識のもとにあるのは、
人間の根源的で純粋な命の息吹ではなく
人間の対立の中で育てられてしまった
自己顕示と自己防衛の意識で
もっと細かくいうなら
自分の親やそれに類するが者たちの自我が
自分の中にすりこまれている状態の自分です。
そこには”自分”という
他者に対抗しようとする
未熟な自我の感情が潜んでいます。
それは極めて個人的な情報と感情に裏打ちされたもので、
ほとんどの人間は
その自意識が作用する自分というものを基軸にした”ものさし”で
自分の外側の世界を測り
自分が今まで獲得した情報に基づいて
すべてのことを判断しようとする
自分の意識です。
この自我の意識は
基本的には
周囲の人間の自我と対抗して
存在します。
ひたらくいうと
自分が無意識のうちに
あれこれと
すべてを自分流に解釈し
それをそのまま
あたかも他人や世界に通じるようなものと
錯覚してしまう
自分のものさしですね。
さらにそのものさしは
自分の想定外のことや
自分が知らないこと
そして自分が間違っていることなどを
指摘されると自我のプライドが
傷ついててしまい、
その反動でさらに
自分のものさしを強化しようとします。
しかし知恵の働く者はそのものさしそのものの
問題性に気づくのですが
その気づくということが
駱駝が針の穴をとおるがごとくのように
難しいのですね。
それがいわゆる
自分が思いこんだものさしであるということに
気づかないかぎり
世界は自分という狭い意識のなかでしか
捉えることがせきません。
しかも
そういう自分の自意識を捨てることは
もう至難の業です。
自分がそういう自意識の中にいるということに
気づくことさえ
人間はなかなかできません。
イエスが自分の言葉を理解する・・ということは
それまでの自分を捨て
自分の思いこんでしまった既成観念を捨てる自己否定という
厳しい関門の中を通るということで
それは
厳しく自分をみつめなければならない
ぎりぎりまでに自分を追いつめることでしか
通れない
狭い門であると
言っているのですね。
誰でもが通れるような道ではないのですね。
しかし
今まで自分が身につけていた自分を捨てる。
自分の一切捨てる・・ということ。
さらに
そういうものに基づいた生き方を
捨てろとは
どういうことなのでしょうか?
なぜ
自分を捨てなければイエスの言葉の真理が
理解できないのでしょうか?
それはね、
自分の中に自意識というものがある限り
自分を超越するようなことにであっても
常に自意識がそれを阻み
自分をあたらしく生まれ変わることを
させないからです。
どうしても人間は
今の自分を維持しようとします。
未知の世界や
自意識で把握できない世界を
嫌がり
常に
自分の手の内でことをはかり
解決しようとするのです。
未知へと挑むリスクを回避しようとするのですね。
だから
自分の可能性をそこまでにとどめるなら
それはそれでいいのだと思いますし
おそらくそこには
似たものどうしが
おたがにぶつかり合うだけの世界ですが
それでいい人はそれでいいと
思います。
残念ながらそういう世界は
解決をはかるために
もっと高次な自分へとジャンプしない人間たちが
いつも同じレベルで
いつもおなじことを繰り返すという世界ですね。
しかし
自分のローカル性や
自分の世界の狭さに気づいたひとは
外的世界の大きさに
視野が広がっていきます。
世界は、
或いは
自分の外側に広がる外的世界は
自分のものさしなどでは
はかりきれない
大きさがあるからです。
自分のものさしは
たかだか自分の背丈の内容でしかなく
周囲のローカルな情報にすぎないからです。
そしてその多くが
自我の汚れ、つまり
恐れや怯えや不安がこびりついて
自分の自我を委縮させ
自分も他人も
疑い
その反動で自分の防衛ばかり図ろうとする
自分の意識だからです。
自分の外側にある
大きくて広い世界に
なにがあるかというと
そこには
営々と重ねられてきた
人間の思索や叡智が
星の数よりも多く
煌めいています。
そういう広さから
俯瞰して自分の世界を見てみると、
自分が分っているというのは
たかだか自分が分っている範囲のうちにおいて
わかっているということで
それは極めて限定的なものにすぎないことが
わかってきます。
その限定的なものにしがみついている限り
自分の視野はそこどまりでしょう。
しかし
自分が分っていることは
もう、ちっちゃな、ちっちゃな、
わずかな点にすぎないと
気づいてはじめて
自分以外の世界の大きさや広さが
みえてきます。
つまり世界は
自分のしらないことだらけなのだ・・という
ことに
開眼できるのですね。
そうした時初めて
人間が営々と積み重ねてきた思索と思考の上にある
深い学識にもとづいた人間観や
人間の”我欲”を超えたところに見えてくる
純粋な人間のこころや
そして体中を流れてゆく
清々しく晴れ晴れとした精気に
気づくことが出来るのですね。
人間の濁った感情が
いかに
ひとりよがりのことか・・・ということが
わかってくるのです。
そういう開眼を得てこそ
自分の視野をこえて
もっと抽象的に
人間をとらえていくことが
できます。
さて、イエスのこの「狭き門」に匹敵するのが
道元の世界ではないかと
私は思っています。
それは曹洞宗、永平寺の雲水たちの修行の姿に
そのことを見ます。
生活の一切に、
ことこまかな作法が決められ、
それを逸脱することは
許されない
いわゆる自由がない生活です。
自分の思慮を一切許されず
その小さな自分と
自分へのこだわり、執着を
超越しなければならない
厳しい戒律のせかいですね。
しかし、これをやり遂げたあと
はじめて
新生な自分が生まれてくると思いますよ。
それは一見人間を解放することと反するように見えます。
しかしそうではないのですね。
そこでは
その人間が抱え込んでいる、
人間たちが造りだした煩悩のせかいに
まみえている人間(自分)。
自分に捉われ
自分の小さい狭量な思慮のなかでしか
解決できないことを
自覚できない人間(自分)。
自分の自我にしがみつく自分=自分のやり方や自分の考え方(ものさし)にしがみつく自分
が
いっさい否定され
そういう自我が自分から
放り出されていきます。
そういう自分にたいする執着は
許されないのです。
事細かに全否定され
自我が潰しつくされてはじめて
人間は
自分の自我の執着から
解放されるのですね。
もっというなら
自分にしがみつき
自分を通そうとするかぎり
そこには
自分の客観性を見る目がありません。
自分を突きはなし
自分を遠くからながめて
はじめて
自分の全貌がみえてきます。
はっきりいうと
自分にしがみつこうとする自我は
未熟な幼児性のつよい自分です。
できたら、リスクも負いたくない、責任もとりたくない
厳しいことには向き合いたくない・・という
小児的な自分でありますよ。
それを道元は
いっさい妥協することなく
厳しく突きはなし
さらに行を強制するのですね。
寝起きからはじまり
食べる作法や
仕事の作法や
就寝の作法まで
いっさいの自分流を
奪いとってしまいます。
何と厳しいことかと思いますが、しかし
はっきりいうと
生きるということにおいては
なにひとつとして厳しくないものはないのです。
みんな厳しいのですよ。
ただみないふりや
なかったことにしているだけです。
しかし見ないふりをしても
いくら
なかったことにしても
自分の蒔いた種は
いずれ自分が刈り取らなければならなくなります。
これもイエスが言っていますね。
そして
「狭い門」から入った人間たちに
何が待っているかというと
そこに在るのは
深い人間洞察にみちた人間観の
叡智と
自分をより高次の時限に置いて生きようとする
清々しい心。
人間のドロドロとした感情や執念の渦巻く世界との
決別です。
それは
自分というかけがえのない個を生きるわたしです。
さらにイエスが自分の言葉を
”福音”(良き知らせ・ギリシャ語でエバンゲリオン)としたことの
大きな
パラドックスがそこにあります。
それは
「狭い門から入ろう」と決意したものだけが
人世の苦から解放されていくということです。
つまり
・いきることにおいては
なにひとつとして厳しくないものはないと開眼し
そのことをしっかりうけいれた瞬間から
すべてが
厳しくはあるが、
しかしそこには
自分の可能性があるということが
見えてくるのです。
つまり、受け入れた瞬間から
主体が客体と入れ替わるのですね。
今まで客体として
自分の外側にあったすべてのものが
その主体(自分)のなかに受け入れられたとたんに
こんどは外側ではなく
その内側で生き始めるのです。
それは
昨日書いたように
すべての事が
自分の中でおきていることで
自分の外側におきるのは
すべて
自分の心が映し出されているということが
わかってくるのです。
だからこそ
禅の逸話話の中で
唐代の禅匠、陸州道踪が
弟子弟に王常侍対して
陸、「露柱も疲れたか」
と
問い
王常侍が
王、「露柱も疲れました」と
答えた時
はじめて
王常侍が開眼したとして
赦したのですね。
つまり
自分が疲れたということは
自分に見えるものすべてが
疲れた・・という事なのです。
主体が客体に投影され
投影された客体が
主体に再投影され
ひとつの認識として
獲得されるということですね。
西のイエスのことばも
東の道元のことばもともに
深い深い人間洞察による視点から
人間の根源にある命の息吹を
呼び起こし
自分を
浄化していくための門。
それを伝えようとする
メッセージであり
人間への愛に満ちていると
私は思います。