コメントの質問にお答えします。 |
「わき目もふらず、一心に!」ということに対して、
以下のようなコメントを頂きました。
脇目も降らずに一心に取り組むと
気が使えない空気が読めない、
人を傷つけてしまうのではないかと恐れがあり、
なかなか一心に取り組むことができません。
傷付き、悩み、自らを責める方が
成長出来るのではないかと考えてしまいます。
差し出がましいとは思いますが、
この考えに対して何かご教授頂ければと思います。
まあ、多くのひとが
このように考えてしまうのでしょうがね~。
まあ、なるべくわかりやすくお答えしますが
その時
あなた自身が
自分の深層にある心理を
(あなたの行動の動機になっている心理を・・。)
よーくも見つめてもらわないと
理解できませんから
感情的にならず
厳しく
自分の深層心理を
見つめながら
読んでください。
結論からいうと
・気が使えない空気が読めない、
人を傷つけてしまうのではないかと恐れがあり、
・傷付き、悩み、自らを責める・・・・・と
いうことを
・いっさい取っ払ったときこそ
◎つまり、心の中からそういう不安をを
いつさい取っ払った時こそ
・心と体が一体化する
・その人間の”内的秩序”(心と体一つに集中する安心感)が生まれ
・脳も体もが活性化するのですよ。(生き生きとしてくるのです。)
その時こそ
・爽やかで
・とらわれのない
・無心の自分が生まれますから
他人との関係は
そんな風に神経をつかわなくても
とても爽やかになります。
◎つまり、人間は不安や恐れを抱えていない人とは
とても穏やかに交わります。
そして
そういう風な自分が生まれると
自分が自立し
・他人に対する介入もなくなり
・他人を受け入れる心の余裕や
・人間にたいするやさしいまなざしの自分がうまれますから
それこそが人間の成長ではないでしょうかねえ~?
この方がいっている人間的成長が
傷つき、悩み、自らを責めることなら
そういう風に思いこんでおられる訳ですが
でもそれは
・心理のメカニズムからいっても
・脳のメカニズムからいっても
とても不毛な心と神経の使い方だとおもいます。
そういう風に思い込んで、
それを人間の成長だと
”信念化”している人が
まあこの国ではいわゆる
”常識的なひと”でしょうから
つまり
日本人の多くのひとが
・そういう風に思いこんでしまっているし、
それも
・日本でしか通用しない思い込みなんですが
※、信念化とは、そういう風に固く思いこんでいることです。
その”常識的なひと”””から
脱却しないと
自己実現も仕事も
自分の為したいことを成し遂げることも
なかなかできない・・・と
この間私は書き続けているのですが・・・・
※ 常識的な人というのは
常識と思われている”観念”(思い込み)に捉われている人です。
常識というのも
社会を統制しようとする人間たちが生み出してゆくもので、
それも時代の推移ととも変わってゆくものです。
つまりその時代の人間に都合のいいように、
いつも作り変えられていく観念です。
だから、それはチャレンジしていく人の観念ではありませんね。
この方が書いている
・気が使えない空気が読めない、
・人を傷つけてしまうのではないかと恐れがあり、
・傷付き、悩み、自らを責める
ことはすべて
他人との”関係”のなかでおきる
自分の姿(自己イメージ)であり
他人との間でとる自分のスタンスです。
◎ それはいつも他人との中で、
他人との関係が変われば、
また自分もそれに応じなければない・・・という
いつも他人に翻弄される自分像で
なんとも不毛な自分です。
気を遣うとか、自分を責めるとかは
・他人との関係において
・他人から気遣いのできるいい人だとおもわれたいとか、
逆に
・気の利かないにんげんだとは思われたくない
ということですね。
そして
そこには、この方が自ら書いているように
・人を傷つけてしまうのではないかと恐れがあり、
と言いう風に
・”恐れ”があるのですね。
つまり
他人に対する不信(疑い)があるからこそ
その恐れや不安や怯えの裏返しとして
・気を遣うとか
・空気を読むとか
・傷つけないようのする・・・・という
自己コントロールで
他人をコントロールしようとしている。
これもこのブログで書き続けていますが、
・自分の不安心理の裏返しであり
この方が自分で自分の心を
・そういう風に作り上げているに過ぎないのですよ。
実際の人間関係は
・そういう気遣いがなくなればなくなるほど
・うまくいきます。
また
そういう気遣いをする人は
・無意識に相手にたいしても
・そういう気遣いをすることを求めており
・周囲に、そういう気遣いをする人ばかりを
・集めてしまいます。
そういう人の周りには
・気遣いをしないひとは近寄ってきませんし
そういう人たちは
・気遣いをしない人を
・はねてしまいますから、
おそらくこの方は、
気遣いをしないことが
・どんなに気が楽で
・楽しい人間関係を創れる・・・か
ということを
・経験したことがないのでしょうね。
※ 一回でも体験すると、人間は、そういう風な
方向を変えていくのですが,
体験しないと、恐れが取れないのですね。
つまり気遣いなどということは
・依存する人間の
”こころのさぐりあい”なのです。
本当の心遣いというのは
相手をそのとおりに信頼し
心を深読みしないで、
相手をそのまま受け入れることだと
思いますよ。
素直に素直に交流すればいいと思いますし
もし、必要であれば、さっと手を貸すとか
ささやかに寄り添ってあげることだと
思いますがねェ~。
・空気を読む・・・ということも
孤立を恐れる人間が
そうならないように・・・と思い込んでやっていることで、
そういう風に
・空気をよむことが
・重要だとおもいこんでいるのでしょうね~。
これもまたそういう人間たちがあたかも、
そういう人間の同調が重要だと思いこんでいる人間たちの
大いなる勘違いで、その裏には孤立への恐れがあります。
◎しかし最も強い人は、空気など読まずに、いつも自分自身でいられる人です
それに
ほんとに重要なことはほかにあるとおもいますがねえ~!
※ 脳はそれが重要だと思い込むと、もうそのことばかり捉われていきますから、
ほかにある、もっと重要なことに反応ししなくなります。…怖いねえ~
◎ だから些末な事ばかりに捉われると、
人生をそのことにばかり費やしてしまうのですよ。
そして
脳のメカニズムからいうと
脳はそれぞれが 個絶していますから
人間は、
・初めから孤立しており
・ほんのささやかな交流と共感の中で心を交換し
・みんな孤独の自分をいきているのです。
・その孤独を忘れるのが
◎ わき目もふらす、一心の自分・・・の状態です。
そして
自分の孤独を
・自覚的に自分で引き受け
・孤立を恐れず、
・いつも自分の目標にチャレンジしている人間のほうが
最終的には、
人びとに
受け入れられていきます。
つまり
そういう甘ったれのことは
あなたはあなた、
私は、私
という
自立した関係で
お互いを尊重し
一切を自分でまかなって生き
他人への介入をしない・・・という
自立した関係のなかでは
生まれません。
さらに脳は、
ひとり、ひとりがまったく別の世界>を生きていますから
気遣いというのは
その人間の勝手な思い込みによるものが多く
相手は、そんな風に思っていないと思います。
つまり
人間は、相手のこころなど
分りえないのですよ。
・推測しているだけです。
(シュミレーションしているだけ)
もし気遣いが重要だと思っている人間が
自分の周りに多いなら
それは
・その人間が
・自分と同じように気遣いを必要と思い込んでいる人間を
・自分の周囲に集めているから
そうなるのです。
だって異端な人間なんか寄せ付けないでしょ、普通の人間は!(常識的人間は!)
さらに
いつも自分が責任を取る・・・という覚悟ができている人間は
自分を責めません。
もし相手がに対して心ない事をしてしまったなら
・ちゃんと詫びる。
詫びたらそれはもうおしまいです。
さらに
他人からどう思われようと
・自分のしたことに対しては
責任をとる。
それがたとえ相手や他人から
誤解された自分だとしても
・それをそのまま受け入れる。
つまり他人が自分のことをどうおもうかは
・他人の勝手であり
自分を
・いい人に思ってもらいたいというのも
・その人間の甘えであり
・他人の心に介入していることでも
あるのですぞ!
さらに心理のメカニズムからいうと
・自分を責める人はほとんどが
・責任を取らない代わりに
自分を責める。
つまり
・ちゃんと相手に謝ったり
・それなりの行動をとらずに
・解決ということをせず、
その代償として
・自分を責めたり
・自己嫌悪することで
つまり
・自分をいじくることで
◎責任をとることを
・ごまかしている
という
心のトリックですからね。
他人を傷つけるということも
脳のメカニズムからいうと
ほとんどが思い込みで
人間は自分で勝ってに傷つくものです。
さらにいうと
自分の幼児期や育成期にこころの傷になっているものが
他人との間でフラッシュバックして
反応しているだけのことです。
そのほとんどは親との関係によってついた傷です。
つまり
自分が意識的に、
他人を傷つけてやろうとしない限り
たとえ相手が傷ついても
それは
相手自身の問題であり
ほおっておいてあげるのが
いちばんの愛情です。
そして
たとえ相手が傷ついたとしても
人間は
・自力で自己回復する力をもっていますから、
・その人間のそういう生命力を
・信頼することです。
そして
人間は
心の動機のところが
・無心であれば
それはそのまま
相手に伝わってゆきますから
長く付き合えば付き合うほど
そういう誤解は
とけていきます。
最後に
わたしが書き続けているのは
多くの人が、この方のように思い込んでいるとしたら
それは
次元の低い
生産性のないところで、
自分をいじくり
つまらない小競り合いばかりに
心をつかっていることでありますよ。
もし
ほんとに
自分を生かし、
自分の潜在能力を開花させたいなら
もう
そういう神経的な世界から脱却して
ほんとうに重要なことにむかってのみ
神経もエネルギーも
注ぎこむことだと
思います。
そのためには
冒頭に書いたように
自分の心の深層にある
自分の行動の動機になっている
心理と感情を
よーく
見つめることです。
感情に捉われがちな自分を
厳しく
きびしく
つきはなして
見れば見るほど
自分の姿がみえてきます。
どうでしょうか、
お分かりになったかなあ~?
寒いのに
咲きかけて、すーっとそのまま
頑張ってくれている
薔薇のつぼみ?
です。
ムラ社会では一歩を踏み出すのに勇気はいりますが、きっと本当はムラの皆もそういう生き方がしたいと思っていると思います。
とても励みになり、何度も読み返しています。
はっとすること、なるほどと思うこと、これで良かったのか!と安心すること…たくさんです。
一歩進んではまた後退の繰り返しですが、成長したいです。