シリーズ・物語から自由奔放に読み取ってみよう! |
物語シリーズでは
作品の奥に潜む
作家の心理や精神の在り様や
そこらみえてくる
その作家の世界とメッセいーじを
分析していきました。
つまり作品の筋ではなく
物語から見えてくる
・作家は何を考えているか?
・どういう動機がこの物語を創出させたか?
・作家は何を伝えたかったか?
という
作品の奥に潜んでる作家の心理や精神や世界観を
読み取っていくことでした。
それを読み取っていくには
自伝や日記などではなく、
作品の中にこそ
それらが
潜んでいます。
自伝や日記には
作家が
自分を脚色してまうことが多々あり
それに比べ
作品の中で使われる
助詞や助動詞のなかに
無意識に
落とし込まれる言葉に
作家の本心が
あります。
また
行間にあらわれる温度や湿度や
感情の落差のなかにも
その作家のアイデンティティーが
潜んでいるように
思います。
ただ
アンデルセンの場合は
翻訳者・・という関門があり
原語で読めたら
もっと
彼の心理や精神や体温に迫れたと
思います。
逆に小川未明氏のばあいは
もう
ストレートにそれが
顕われていましたね。
作家は
その作品を書くとき
よほどの
客観的な
自己検証の作業をしなくては
なりません。
そして
明瞭でなくとも
うすぼんやりでも良いですから
作家自身に
その出口が見えていないと
ただただ
読者者や視聴者に
自分の問題性を
投げて
振り回してしまうことで
終わってしまいます。
作家の甘えが
渡されてしまうのですね
作家自身の格闘や
葛藤が為されていない作品は
とかく
そういうことになってしまうのです。
残念なことに
そういう作品は
今までもたくさん
氾濫しており
今もそうだと思います。
しかし
作家が格闘し
厳しく自己検証がなされた作品の中には
それがどんなに残酷であっても
悲観的な結末であろうとも
そこには
たしかに
作家が伝えたい
なにかが
あり
読者も視聴者も
それを
きちんと受け取って
いきます。
たとえば
アンデルセンの
「あるお母さんのはなし」という
作品では
赤ん坊を死神に連れ去られたお母さんが
必至で赤ん坊を取り戻そうと
死神を追いかけ
対決しようとしますが
最後は
死神に赤ん坊を連れて行かれます。
作品の結末は
残酷なものですが
しかし
アンデルセンは
その残酷な物語のなかにも
”光”を
仕込んでいます。
しかし
その光は
読者が
作品に向き合い
”考えなければ”
探しだすことも
感じることも
できません。
なぜなら
筋書きには
書いてないからです。
それは
物語という
森の中や
川の中や
海の中を
読者自身が
歩き
彷徨い
そして
知ろう(考えよう)・・・としない限り
見えません。
しかし
気づいた時
そのてのひらのなかに
大事な大事なものが
渡されていくのですね。
あともうすこしで
YouTube で
「雪の女王」
そして
最終回の
「赤い靴」と「マッチ売りの少女」が
アップされます。
実は
この三つの物語の分析を
くまなく
お伝えするには
YouTube では
ちょっと限界がありますので
これから
そのことを
少しずつ書いていこうと
思います。
深い、深い
アンデルセンの世界を
お伝えできればなあ~と
思っています。
では!

あの、語り部の女性のことですね
素敵ね!
アンデルセンの圧巻の作品「雪の女王」
そして最終回の「赤い靴」と「マッチ売りの少女」
近日公開です。
是非ご覧下さい!
● 赤いろうそくと人魚・シャドウについて
● アンデルセンの男性性について
しゃんとした錫の兵隊・みにくいあひるの子・もみの木
親指姫
人魚姫
「竹取物語」
「シンデレラ」

潜んでいるように・・」そうだなあ、と思います。言葉は嘘をつきますが、表現の形には偽りはないのかもしれません。私も趣味で小説を書いていましたが、自分にとって美しい形を書こうとしていたのは、現実から目をそらすための手段に過ぎないのでは、と最近感じるようになって、筆が止まっています。読み手として、また書くことを趣味にしていた人間としても楽しみにしています。
「赤い蝋燭と人魚」も拝聴しました。伝心柱さんの、人間の親に対する意見は、目が覚まされるようでした。本当に、天塩をかけて育てた親ならありえないことでですよね。そこに思い至らず、「これは現実なのだ」と認識して、人の感情は信用できないものと規定してしまった私です。読み手の私が、物語の力に流されず自分の頭で考えていたら、別の答えは出ていたのかもしれないと感じました。力のある動画を、本当亜に有り難うございました。