シリーズ・物語から自由奔放に読み取ってみよう!雪の女王より |
悪魔が登場します。
しかし、この悪魔は、アンデルセンによると
いじわるで
そうとうたちが悪いらしいのですが
どこか滑稽です。
でもね、なぜか、
一番先に悪魔が登場し
その悪魔が鏡を作ったというところに
私はアンデルセンが
自分の人間観に自信を持ちはじめ、
そしてそれを
悪魔にたくして
鏡を作らせたと
思うのです。
なぜなら、
人間はだれも、自分の姿を直接
みることができません。
そして
残念なことに
自分でありながら
自分のことが一番わからないのが
人間です。
しかし
鏡は、その自分を写しだしてくれます。
そして鏡というのは
<理性体>です。
そこに在るのは
ただただ
感情もなく温度もなく
物体、対象を写すのみで
ありのままの自分をうつしだす物体としての
鏡です。
まさしく、
あたたかさも、安らぎもない
雪の女王の如くです。
鏡は決して
ごまかしません。
いくら装っても
いくら取り繕っても
いくら化けて
鏡はそれをも
そのまま
写し出してしまいます。
※そしてね、
残念ながら、脳のディスプレイである顔は
その人間の自我を
写し出してしまいます。
実は人間の中にも
鏡があります。
それは
内面にある心の世界です。
さらに
脳科学でいうところの
ミラーニュウロンという働きがあります。
自分をあたかも
外側から見ているかのように見る
鏡のように働く
脳のニューロンです。
真実というのは
鏡のように
温かさも
安らぎもない
ただただありのままのことが
そこに在るだけです。
それを
・どのように感じるか
それを
・どのように考えるか
それを
・どのように解釈するか
はすべて
その人間が
自分のなかで行う操作にすぎません。
だから
ひとつの現象を
千人の人がみたり
感じたりしたら
千の感じた方があり
千の考えかたがあり
千の解釈があるということです。
しかし
その時重要なのは
それを感じ、考え、解釈する自分という母体は
どうであるかと
言うことですね。
自分という母体が
もともと歪んでいたり偏っていたりすると
アンデルセンが書いているように
・いいものや美しいものを
たちまちのうちにしぼませて
・ほとんどないようにみてしまう
・わるいものや醜いものを
・実際より大きく
・さらに悪くみている
どんなに素晴らしい人も
・ひどく恐ろしいひとに見えたり
・清くまじめな考えがよぎると
・鏡のなかには
・そっとするあざけりの表情があらわれる。
まあこれらはちょっと悪魔側にかたよっていて
極端ですが、
しかし
問題は
私たちは自分の中に
どんな鏡を
もっているかです。
悪魔は<悪>ですから
<悪>のように感じ、考え、解釈します。
しかし、それは同様に
善人は<善>ですから
<善>のように感じ、考え、解釈します。
そして
鏡にうつるのは
<善>でもなく
<悪>でもなく
ただただ
ありのままの世界です。
悪魔からみると
<善>の世界は
いかにも
<善>に偏り
片手落ちです。
そしてともすると
人間は
<善>のほうばかりに
自分を偽装したがります。
真正面から
<悪>をみることに
とても臆病です。
だからこそ
この鏡をつくることにより
アンデルセンは
「やっと、世の中や人間のほんとうの姿を
みられるようになった」と
言うのです。
では
この「雪の女王」の物語は
そういう
人間の<悪>をあぶりだす物語であるかという
そうではありません。
逆に
登場人物たちは
ほとんど
<善なる人間>です。
そしてゲルダは
それらの人間達の善意に助けられて
カイを救い出します。
では
雪の女王はどうでしょうか?
彼女も悪でもなく
さらに
善でもありません。
実は
悪と言う概念も
善という概念も
人間が考え出したものです。
同様に
に
神も悪魔も
人間が考え出したものです。
だからこそ
それを
様々に投影してしまうのです。
もともと
人間のなかには
善もあり、悪もあり
両方ともの機能を
脳は備えています。
だから
そういう矛盾の中に
私たちの<存在>は
あるのです。
善とか悪とかは
それを突きつめてゆくと
そこには
曖昧で茫洋とした
境界線しか
ありません。
つまり
わたしたちの
命は
善も悪も包括しながら
生きるという現象を
推し進めているのです。
善らしきものや
悪らしきものが
脳という海の中に
プカプカと浮かんでいるような
感じですかね~。
それはその人間の必要性に応じて
意識に浮かんだり
意識を乗っ取ったりしているだけです。
つまり
人間は
<善>も<悪>も
<美しいこと>も
<醜いこと>も
すべてを
誰もが
持っているのです。
だからこそ
母体としての自分は、
どう生きるか、が
問われているのだと
私は思います。
この「雪の女王」という物語は
アンデルセンが
40歳にさしかかる頃に
考え出されてきたものです。
おそらく
彼の中で
生きるということが
善だとか、悪だという
一面的なものではないという
確信がうまれつつあるなかで
ゲルダや他の善なる人間の反対側に
悪魔と雪の女王というキャラクターを
据えたのだと
思います。
70歳で亡くなるアンデルセンの人生の
ちょうど中間点当たりで
この物語が書かれたことは
この物語の地点が
アンデルセン自身の自己追求が
さらに厳しく冷徹に
為されてゆくための
契機であり
過渡期の物語であったと
私は思います。
単に子供のための童話を書くのではなく
人間を描こうとしたアンデルセンの
大きな通過点として
この「雪の女王」があると
私は思います。
その分
<鏡>でもあり
<死>の世界を司るイメージとしての
<雪の女王>が
まだまだ
アンデルセン自身のなかで
明確に
確立されておらず
その分
曖昧なことばで語られたと
思います。
ここいら辺りから
アンデルセンのなかで
生と死が
ドンドン力強く語れていきます。
その迷いを吹っ切るように書かれたのが
「マッチ売りの少女」ではないかと
思います。

ところで最近お笑い芸人のゴージャス見ないけど、元気にしてるのかな~!
YouTube
・[雪の女王」
・物語シリーズ最終回・「赤い靴」と「マッチ売りの少女」
です。
是非ご覧ください。
● 赤いろうそくと人魚・シャドウについて
● アンデルセンの男性性について
しゃんとした錫の兵隊・みにくいあひるの子・もみの木
親指姫
人魚姫
「竹取物語」
「シンデレラ」