シリーズ物語から奔放に読み取ってみよう・雪の女王その3 |
もしかしたら<雪の女王>は
アンデルセンの男性性であり、
アンデルセンがこの物語を書いた頃には
彼の男性性がしっかりと確立されていないために
<氷姫>の延長上に女性として
<死>を司るキャラクターを書いたのかもしれないと
思います。
なぜ、<死>が男性性かというと
その生命を産み、生かすために
感情や温度で人間を育み、包み込む女性性があり、
その”生きる”ということの対極には
<死>があり
人間が<死>と向き合い<死>を受け入れる時には、
そのには感情を制した男性性の理性の働きがあるからです。
それは感情ではなく
冷静に冷徹にときには残酷なまでに
現実のことをわきまえた(分別)た
知性の働きです。
前回ご紹介した「あるお母さんのお話」では
病気で死にそうな赤ん坊を
死神が連れ去ってゆきます。
その死神を追いかけてお母さんは彷徨いますが
茨に胸をさされながら、頭も真っ白になり
眼も奪われながらもやっと
死神が命を管理する<命の花の温室>に辿りつきます。
そこで死神と対決するために
お母さんは、自分の子供を死につれてゆくなら
他の子供の命の花を引き抜くと脅します。
しかし、死神から
「お前は、自分が不幸せだといいながら
ほかのお母さんも不幸せにしようとしている」と指摘され
お前の失った目を前よりもあかるくして
取り戻してあげるから
その目で傍にある井戸の中覗いてみるようにいいます。
その井戸のなかには
お前がひきちぎって捨てようとしたその命の花の、
これからのありさまとその人間の一生が映るだろう。
その時お前が何を引ちぎってしまおうとしたかが
分るのだといいます。
そういわれてお母さんはその井戸を覗くと
たくさんの幸福の喜びに沸く命があり
お母さんはそれを見てお母さんのこころも
大きな喜びに包まれます。
しかし
もう一つの命は、悲しみや苦しみや恐れやみじめさで
いっぱいでした。
死神が言います。
その喜びに満ちる命も、
苦しみや恐れにおののく命も
どちらも、神様のおぼしめしであると。
お母さんはまだ自分の子供のことばかりに心を奪われていて
「どちらが私のこどもでしょうか?」と。
しかし、そういいながら
その時お母さんははっと気づいていきます。
そして自分の子供にだけ捉われるのではなく
命は自分ではどうすることもできないものであること。
だからこそ運命を引き受け
神の御心にすべてをゆだねようと思います。
それは母親として
とても辛い悲しい事でもあり
お母さんは
うなだれてしまいます。
しかし
うなだれたお母さんはもはや
死を恐れ、わが子を失うことを恐れる
弱いお母さんではありません。
そして
最後に死神は、
お母さんの子供を死へと連れ去っていきます。
人間はいずれ死に直面しなければなりません、
<死>は人間が受け入れるしかない不条理です。
しかし
<死>と直面し向き合った時
人間は
つよくなります。
たいせつな愛しいわが子を失ったこのお母さん。
ほんとうに気の毒なお母さんですが、
しかし、
このお母さんはもう弱くないお母さんです。
またさらに
子供を所有するのではなく
その愛情に依存するのでもなく
子供を天から授かったものとして
母親としての自分の役割を
力強くいきるでしょう。
この死神こそ
アンデルセンの男性性であり
そこには
感情に流されず、
冷静に生きることと
死ぬことを見つめるアンデルセンの屋台骨が
立っています。
この屋台骨が建ってくると
人間は
その女性性と男性性を駆使しながら
自在に生きていけます。
だからこそ
あの「赤い靴」も「マッチ売りの少女」も
その不条理を振り切ったエンドを書くことができたのだと
思います。
YouTube
・[雪の女王」
・物語シリーズ最終回・「赤い靴」と「マッチ売りの少女」
です。
是非ご覧ください。
● 赤いろうそくと人魚・シャドウについて
● アンデルセンの男性性について
しゃんとした錫の兵隊・みにくいあひるの子・もみの木
親指姫
人魚姫
「竹取物語」
「シンデレラ」