シャドウからの脱出 おまけ 美しい人間 |
今までみたこともないような
映画でした。
それは
私の中の感情と理性(思考)との
二つともが
補い合うかのように働き
映画の行く先を見ているのです。
映画というと
たいがい感情の方が過剰に刺激されてしまうのですが
この映画では
しきりに主人公たちの内面を
考えている私がいました。
さて
今日は
シャドウからの脱出の”おまけ”として
美しいということについて
書きます。
ずーっとシャドウのことを
書いてきましたが
以前にも書いたように
美しいというのは
光に照らし出されたものが
その影によって
くっきりを
浮かびあがってこそ
美しいのです。
影がない世界は
狂気です。
そして
自分のなかのシャドウを
受け入れてはじめて
ものの美しさが
わかってきます。
美しい人間の姿とは
が
分ってきます。
それは表面的で
外見的なものではないで
その人の存在そのものが放つ
美しさです。
シャドウさえも
愛おしいものであるということが
理解できてくると
ものの綾とか
微妙で繊細な
機微とか
陰影とか
そして
涼やかさも
以外にも
シャドウがくれる
安心もが
すべて
自分の内面を深く
隈取り
豊に
彩ってくれます。
物事の道理も
一辺倒の
片道切符ではなく
光の変化ととも
シャドウの変化があり
それらが
自在に
融通無碍に
交錯しあって
自分という
人間の現象が
生まれるのだということが
分ってきます。
それは
あれはダメで
これはいい
というものではなく
万華鏡のように
大きな円である
<私の全体>が
刻一に変化する
わ・た・し
です。
そしてもともと
私達の脳には
高邁なこころ(前頭前野)もあり
ネガティヴな感情(辺縁系)も
内蔵されていますから
もともと
私達は
崇高なものに感動するこころも
嫉妬やねたむ感情も
持ち合わせて
いるのですね。
だれもが
すべての人がです。
しかしシャドウの強い人は
ネガティヴな脳の回路ばかりが強化されているので
苦しくなって
それを他者にぶつけてしまうのですね。
そして其のネガティヴな回路形成には
幼児期のその人間をめぐる
抑圧的な人間関係が
著しく
影響しているということです。
でもね、
シャドウをお掃除して
それを
他者にぶつけるのではなく
自分の中の
悲しみや
苦しみの
アンテナとして
受け入れていくと
そこに
光も影も
統合した
立体的な あ・な・た が
うまれてきます。
他者にシャドウをぶつけるのではなく
自分のなかでの
シャドウの
受容が
できるようになります。
もともと
人間は嫉妬するものです。
人間は意地悪をしたくなるもので。
人間は時に卑屈になるものです。
そういう自分さえも
それでいいよ!
と
受け入れて
OKを出す。
シャドウが消えるということは
有り得ません。
自分のシャドウと
どう向き合い
どう付き合い
シャドウも含めて
自分を輝かせていくことです。
まだまだシャドウに乗っ取られるひとは
朝の祈りのノートで
しっかりと
シャドウが暴れないように
釘をさしてください。
どんな人間の中にもある
シャドウ、つまり
自分も自分以外の人間のなかにある
悲しみや
嘆きや
苦しみを
理解できる時
人間の
ほんとうの
美しさが
わかると思いますよ。
シャドウも
本当に
愛おしい
自分です。
※ 参考 竜安寺の石庭
・この庭こそシャドウの極まりの美であると
私は思います。

登っちまうのかい!朝顔君は。
YouTube
・[雪の女王」
・物語シリーズ最終回・「赤い靴」と「マッチ売りの少女」
です。
是非ご覧ください。
● 赤いろうそくと人魚・シャドウについて
● アンデルセンの男性性について
しゃんとした錫の兵隊・みにくいあひるの子・もみの木
親指姫
人魚姫
「竹取物語」
「シンデレラ」
※ またコメント欄を開きますが、
このコメント欄は、
自分の愚痴や嘆きや甘えのウンコを
落とす場(便所)ではありませんので
原則として非公開は受け付けません。
また、否と判断したものは
どんどん削除しますので
ご承知おきください