「花子とアン」 みなきゃあ~よかったなあ~!その2 |
最初はとてもワクワクしました。
フジさんはマリラのようで
お爺やんは
マシューのようで
隣のリンさんは
リンド婦人かなあ~と。
コーデりアと呼んでくれというアンと
花子と呼んでくりゅう・・・とい
花は
まるでアンのようだ
とね。
連子さんと花の
飲酒事件のエピソードも
腹心の友である
ダイアナを
葡萄酒で酔わせた話が
下敷きだなあ~と
とても
楽しみに見ていました。
でもね、
花子が英治さんと不倫をする頃から
このドラマは
なんだか作為があると感じ始めました。
つまり
英治さんの前妻が
「死ぬのを待たれるのはイヤだ」という
強烈な台詞を放つことで
村岡花子さんの不倫を
ごまかそうとしていると
感じました。
※ホントはここで見るのをやめれば
よかったんですね。
村岡花子さんは
村岡敬三氏と不倫の末に
結婚し
敬三の前妻の子供は
養子に出されてしまいます。
おそらくそこには
他人には分りえない
やむにやまれぬ事情があって
そういう事になったのだと思います。
しかしこのドラマでは
村岡花子さんの
その在りままの姿を
どこか
修飾してきれいごとに加工し
更に
養子に出した前妻の子供のことは
まるでなかったかのように
無視してしまいました。
しかし
養子に出されたそのお子さんは
関東大震災で
亡くなってしまいます。
そのことを
村岡花子さんは
クールに割り切っていたかもしれません。
でも
もしかしたら
いろいろやむに病まれぬ事情があったとしても
心のどこかで
なにかを
感じていたかもしれません。
私はね、
おそらく
村岡花子さんは
どこかで
そのことを
自分の暗部として
抱えていたのではないかな~と
思うのですよ。
だから
「赤毛のアン」という
養子先でも
温かい人間達にであい
愛された
アンの物語に出遭った時
もしかしたら
ほっとして
救われたのではないか・・・とも
思うのです。
だから
アンに愛情を注いで
訳したのではないかなあ~とも
思うのですよ。
アンに愛情を注いで訳すことが
養子先でなくなった
前妻の子供への
贖罪であり
鎮魂であり
そして
せめてもの
彼女の誠実でもあったのでは
なかろうかと
思うのです。
それは私の思い違いかもしれませんし
思いこみにすぎないかもしれません。
でも
そういう村岡花子さんは
とても素敵だなあ~と
私は思います。
だからこそ
「赤毛のアン」は
私達にギフトされ
少女たちの宝物になったと
私は
思います。
しかしこのNHKのドラマは
そういう村岡さんの影の部分を
なかったことにし
もう
どんどん薄っぺらの台詞と
無駄なエピソードで
どんどん
村岡花子さんを切り張りにして
パッチワークのように
してしまいました。
もし
ありのままの村岡花子さんを
そのまま描いたら
そこに
人間として
自分の未熟さや
恋愛と言えども
不倫をしてしまった自分の
身勝手さに直面して悩む
しかし
とても誠実で
人間らしい
村岡花子さんが
いたかもしれません。
そして
そんな葛藤の中で
村岡さんの”アン”が生まれ
そこに
村岡さんがもう全身で
息吹を注いだということも
私達に伝わります。
だからといって
”アン”が色あせることも
ありません。
むしろ感謝です。
ほんとうに
みなきゃ~よかったな~と
私は悔みます。
ちなみに村岡さんが訳したのは
どういうわけか
アンも孤児なら
あしながおじさんの”ジルシャー”も
孤児院育ちで
”ポリアンナ”も
みんな
孤児です。
もしかしたら私の
思い違いかもしれませんが
何かの因縁を
感じます。
おそらく孤児になっても
その周りにいる温かい人々に囲まれ
自分を失わずに
はつらつと生きる
これらの主人公に
村岡花子さんも
ほっとし
励まされたと
思います。
これが
私が
この朝ドラを
見なければよかったと
思う理由です。