カサヴェテス監督「こわれゆく女」より・繋がるとは! |
夫婦が断絶し
離婚へと進みます。
しかし
「こわれゆく女」では
断絶のなかでも
なんとか
繋がろうとする妻と夫がいます。
だが、この夫婦は
<つながるための言葉>を
もっていない。
それぞれが個々の殻の中で
もがいています。
しかし
それは
人間と人間の関係における
原形の姿でもあり
多くのの夫婦(家族)は
この壁の前で
立ち往生するしかない。
そこには
人間と人間が
<つながり(関係)>を結んでいくには
どうしたらいいかという
大きな課題と試練とが
突きつけられるからです。
その中で
この夫婦は
妻のヒステリーによって
夫も
ドンドン追い詰められてゆきます。
ヒステリーというのは
女性が感情的になって
キレてしまうことではありません。
いわゆる神経症のひとつで
他人との間での繋がりが
解決不能になったとき
何らかの
機能障害が起きてくることです。
この妻の場合
とりとめのない
わけのわからないことを
言いだしたり
声がでなくなったり
体の一部が動かなくなったり
気絶したり
と
ちょっと
心と体が
エラーを
おこしてしまうのです。
この映画を見たとき
直ぐに
妻の異常行動
いや異常というより
逸脱行動と言った方がいいかも
しれませんが
それに
夫が追いつめられていっているのだなあ~と
分りました。
ヒステリーというのは
あくまでも
他人のいないところでは
起きません。
他者、
特に自分が気をひきたい相手に対しての
アピール現象ですから
逆に相手が
異常、或いは
逸脱行動をすると
ハッと危機感が生まれ
そこから
醒めるのです。
だからこの映画の場合も
おいつめられた夫が
もう
どうしようなくなって
「殺すぞ!」と
子供も妻も家族をみんな殺す・・・と言いだして
今度は夫がヒステリーを起こしたとたんに
妻が
正常になるのですね…笑!
そしてそのスレスレのところで
かろうじて
この夫婦は
繋がりを
取り戻そうとする。
つまりそれは
あくまでも
<つながり>を求めた時に
起きる現象ですからね。
しかしこういう関係が続くと
そこには
ストレスしかありませんから
最終的には
こわれてゆくしかありません。
では
どうしたらいいかというと
この原因となっているのは
愛情を求めて
それが満たされないという
心の欠落から起きることですから
まず
そういう
夫婦のなかや
近しい相手に対して
自分の愛情の欠落を
埋めようとする幻想を
捨てることです。
自分の中にある
・自分を理解してほしい
・自分を愛してほしいという甘えを
捨てる必要があります。
まあ、これも
相手(他者)に対する
依存が強いということですが
・相手は、自分の思い通りには
決してならないということを
心とからだに叩き込む必要が
あります。
さらに
自分のことより
・相手がどうであるかを
・理解する能力を
・育てなければいけません。
この夫婦に決定的に欠けているのは
相手(他者)にとの間にある
人間どうしの距離感と
それを理解(察知)する能力の
欠如です。
この能力
・つまり理性をどのように
自分の中で
リセットするかの
・考察と
・他者を観察する能力が
・ゼロにちかく
・いつも自己欲求と感情が
・優先されてしまい
その暴走に
振り回されています。
そこには
自分と他人とが
まったくの
・別世界を生きており
・別の感覚
・別の印象
・別の受け取り方
・別の考え方
・別の事情をもって
・別の感情をもって
相手(他者)が生きている・・という
冷静な
理性のゾーン(自他の分離ゾーン)を
持っていないことが
原因です。
だからいつも
自分と他人を
ごっちゃにしてしまい
自分の感情を
短絡させて
他人にぶつけてしまう。
また
短絡した言葉しか
話せない!
その結果
妻は、自分に子供を預けにきた男性に対して
独りよがりに振る舞いトラブルになり
夫は仕事場で
当り散らして
事故を誘発してしまいます。
それは言葉だけでなく
彼らのコミュニケーション能力の
欠陥でもあります。
相手の立っている背景を
推測、想像することができず
自分側の言葉ばかりを
投げてしまっている。
でもね、こういう人の方が
圧倒的に多いです。
人間関係の中で
よほど揉まれないと
この能力も育ちません。
カサヴェテス監督は
こういう
いかにも
どんな人間もが
陥りそうな
関係をこの映画で
描いています。
凡庸な映画監督は
そうではなく
人間の<愛の幻想>ばかりを
追い求め
描こうとします。
でも
人間の現実は
違うのですね
私達は
<繋がれない>という
断絶の中で生きているということを
しっかりと
熟知したうえで
さらに
その断絶を
どのように
埋めていったらいいかを
考えなければなりません。
そしてその時
とても
重要なのが
<言葉>という
ツールです。
人間はなぜ
<言葉>というものを
発明したのでしょうかね~?
言葉というものは
意識を限定していきます。
そして
<存在>は意識に限定されますが
<意識>さらに抽象化されて
普遍化されていきます。
そこに
<繋がる>ということの
鍵があるように
私は思います。
※ これを話し出すともう
大変難しいので
これ以上は書きませんが。
その<言葉>というものを
私達はどのように
使ったらいいのかを
さらにカサヴェテスさんは
「オープニングナイト」で
伝えようとしているように
思います。
最後にこの
「こわれゆく女」の映画のなかには
前作の「フェイシズ」で喪失した家族が
”こわれかかっている”にも
かろうじて
ちゃんといます。
なぜならそこには
精神と神経=こころの
臨界付近まで
彷徨いながらも
なんとか
<つながろう>とする人間が
いるからですね。
でも
それこそが
人間という
特殊な動物であり
人間が意識(心)をもつことになった
大きな要因だと
思います。
それを
カサヴェテスさんが
知っているからだと
思います。
<繋がろう>とする人間、
その人間は
どのように<言葉>を
発したらいいのか
を
次回の「オープニングナイト」で
書いてみようと
思います。
<映画対談>のU-チューブがアップされました。
<映画から自由奔放に読み取ってみよう!>
第一回「こわれゆく女」より
映画監督 ション・カサヴェテスの世界。
撮影 能勢広 秋葉清功
編集 村上浩康