イ・チャンドンの世界から・グリーンフィッシュ! |
入っていきます。
彼の第一作、処女作である「グリーンフィシュ」から
いきましょう。
対談のために
<イ・チャンドン>の
全作品を見たのですが
実は
この映画は一番最後に見ました。
私が映画に疎いいために
この作品のことを
村上氏から教えてもらうまで
知らなかったものですから
そういう事情で
最後にみたのですが。
他の作品に比べて
どうも理解できないな~と思いました。
まず主人公の人物デッサンがどこか
はっきりしない。
次に
家族の物語と裏社会のことでも
ないらしいし。
一人の若者の青春の彷徨いかというと
それほど軽々しいものでもない。
しかし小説的にみると
面白い!
という中でひらめいたのは
あゝ、この作品は
<イ・チャンドン>氏が
・考え中・・というなかでの
試行錯誤の中から
手がかりを掴もうとしている作品ではないかと
思い始めました。
だからまだ
他の作品に比べて
<核>が鮮明でない。
そういうわけで
対談の時には
<イニシャル>作品だと
お話しました。
でも
たくさんのことが
萌芽的にある
作品だと思います。
つまりこの作品は
イ・チャンドン氏のなかに
まだ解明されていない
或いは
考え中の
さまざまな事を
<相対化>しようとする
氏の試みが見られます。
それは
・家族とはなにか
・社会とはなにか
・国家とはなにか
・経済とはなにか
・近代化とはなにか
そして
・人間のこころ(意識・無意識)とはなにか
・認識とはなにか
という
盛りだくさんの問いかけを
彼自身が
自分に問いかけながら
創っていると
思いました。
物語は
兵役を終えた青年マクトンが
故郷の家へ帰る途中の列車の中で
あたかも身を投げるかのように
デッキから
身を乗り出している女性がおり
その女性のスカーフが
風で飛び
彼の顔へと飛んできます。
そのスカーフを
女性に届けようとして
傍までいくと
その女性がチンピラに難癖をつけられています。
それを彼が救うことから
この女性との関係が始まります。
家族のために職をさがしているマクトン青年は
この女性ミエが
裏社会のボスの
情婦であることを知るのですが
しかし、彼女のボスから
仕事を世話をしてもらい
そこから今度は
そのボスの手下として
裏社会へと
入ってしまいます。
マクトン青年の夢は
家族で食堂を経営することなのですが
彼の家族も
バラバラで
会うたびに喧嘩がはじまります。
そして
彼の実家は
もう
時代から取り残されたように
壊れかかった
廃屋のようではありますが
そこには
大きな柳の木があり
その後ろは
韓国の近代化を象徴するような
高層アパートが
立ち並んでいます。
そして
そのアパートの群が立ち並ぶ
近代的な舗装道路には
木がありません。
※ちなみに<木>は
アートセラピーでは
人間そのもの
或いは
その人間の生命力を
暗示します。
裏社会に入ってしまったマクトンは
もともと正義感にとんだ純粋な青年なのですが
どうも彼の心理デッサンが描き切れていないためか
彼は受け身の自分で
どんどん流されて
裏社会へと
のめり込んでいきます。
逆に
マクトン青年とは正反対に
情婦ミエのボスである
新興やくざの<ペ・テゴン>のほうは
デッサンがしっかりとしており
くまなく描けているようにおもいます。
ペ・テゴンは
再開発を手掛ける
いわば地上げ屋のようなものでしょうか。
日本でも
経済発展の裏には
こういう裏社会の人間が
闇のなかで
暗躍して
土地の再開発を
下請けしていきましたね。
私たちの
綺麗で
清潔なモダンな
近代的暮らしは
そういう裏社会の
ダニのような仕事師の上に
砂上の楼閣のごとく
ある
ということを
表社会で暮らしている人間は
ほとんど知りません。
そういう手を汚す仕事をして
のし上がってきたのが
ペ・テゴンです。
そしてペ・テゴンは
ある再開予定の倒壊しそうなビルへ
マクトンを連れてゆき
自分は泥まみれの物乞い野郎で
便所の蛆虫のごとく
扱われてきたと
告白します。
その大都会で
誰一人知る人間もいない中で
腹をすかした物乞い野郎である自分が
海苔巻き三本と
おでんの汁を盗み飲み
ボコボコにされて
ムショ
はいったのが
このビルで
今では
自分が再開発をして
ここに立派なビルをたてるんだと
話ます。
そしてその再開発の邪魔になる
再開発に反対している人間を
マクトン青年は
ペ・テゴンの指令のもと
罠にかけて
口を封じ
潰してしまいます。
更に
刑務所から出所してきた
ペ・テゴンの兄貴分で
しかし
ペ・テゴンの邪魔をし
対抗してくる
キム・ヤンギルというボスを
マクトンは
殺しにゆき
殺してしまいます。
この時
マクトンは
いわゆる殺し屋へと
変貌し
真っ黒のサングラスを
かけます。
しかし
彼はすべてのきっかけを作った
ペ・テゴンの情婦のミエとも
関係をもってしまい
そのためかどうかは
分らないのですが
キム・ヤンギルを殺した後
今度は
マクトンが
ペ・テゴンに
撃ち殺されてしまいます。
ペ・テゴンに心酔していた
マクトンの無念の顔が
写し出されます。
そしてラストは
妊娠したミエを連れたペ・テゴンが
偶然
新装開店した
「大きな木の家」という食堂に行きます。
その食堂は家族が全員で
働きながら経営している食堂で
その庭には
大きな柳の木があります。
食事を終えたミエは
その柳の木をみて
さらにそのロケーションを見て
かつて
マクトンが自分に見せてくれた
かれの家の写真とそっくりだと
気づいて
嗚咽してしまいます。
しかし
そこには
マクトンがぺ・テゴンに
殺されたことなど
何も知らず
代金を支払うぺ・テゴンに
ペコペコと
頭を下げている
マクトンの家族がいます。
マクトン青年は
もう
いないが
そこには
彼が夢にみた
<家族の食堂>が
何事もなかったかのように
ある
のです。
※このマクトンの不在はもしかしたら
「ポエトリーアグネス」のミジャの不在へと
繋がっていくのかもしれません。
この映画には
後にイチャンドンが描くような
深刻で
どうすることもできない現実
というのはなく
むしろ
自主性に欠ける青年が
どんどん
現実にながされていくという
なにか
私としては
ヌルイものを
感じますが
一方で
ペ・テゴンの中には
生命力があり
マクトンの夢を
踏みにじっても
自分を通していくという
どす黒い
しかし
芯のある力を感じます。
対談のなかで
村上氏が語っておられたように
韓国の近代化へむけて
反体制運動をしていたイ・チャンドンのなかに
それを越えてさらに
人間を掘り下げる
もう一つ深い覚醒が
うまれつつあったのではないかと
思います。
つまり
体制と反体制という
対立する軸を超えて
人間の原風景や
実存の原理みたいなところへと
彼の眼が向いていった
或いは
突き刺さっていこうと
している。
その始まりの作品として
映画の中で
いわゆる善悪をこえた
もっと
深い深い
人間の条理と不条理を
追及しはじめたのでは
ないかと
思います。
だからこそ
二作目の「ペパーミントキャンディー」においては
もう救いがたい
人間の原罪の世界へと
私達を運びこもうとしますし
また
そこでは
重苦しい
<否定の重力>を
人間にかけてしまいます。
冒頭に書いたように
すべての事を
原点から
相対化する。
あるいは
相対化
しなおす。
ということが
イ・チャンドン氏が
それまでの小説家をやめて
映画の助監督として
43歳の時
ゼロから
はじめなおすということへと
なったのではないかと
思います。
確かにゼロからの
はじめなおしを
はじめたのですが
しかし
そこには
ゼロという厳しい地平に立ってこそ
新生なるイチャンドン氏が
誕生し
その誕生こそが
それまでのイチャンドン氏のすべてを
網羅した
大地の豊穣さを
以てある
おおいなる
生まれ変わりであったと
私は
思います。
まさに
<死と再生>のプログラムの中から
大巨匠が
生まれてきたと
私は思います。
そして
次の映画「ペパーミントキャンディー」の
<全否定>の中からこそ
「オアシス」という
名作が生まれてきました。
もうワクワクします。
村上浩康という青年映画監督との出遭いと
知己を得て
このイ・チャンドの世界を
紹介してもらい
私も
生きかえったような気がします。
だから
全力で書きましょう!
では
次回は
「ペパーミントキャンディー」を
書きます。
映画から自由奔放に読み取ってみよう
第2回「オアシス」映画監督イ・チャンドンの世界
