2015年 01月 09日
主観と客観を構造化して見る!その1 |
先日ある青年と電話でお話をしました。
彼は心理不安で苦しまれているようなのですが、
そのお話の中で
イジメについてお話し
しました。
その時
フッと
彼が陥っている
<主観的な思い込みの世界>は
もしかしたら
同じように苦しんでいる
他のひとも
また
人間関係における
トラブルに陥っているひとに
とっても
根本的な問題性としても
その事があるのでは
ないかと
思いました。
それで今日からは
なるべく
分りやすく
その事を書いてみます。
それは
・主観的な世界と
・客観的な世界とを
◎ 構造的にみることができないと
なにも解決できないと
ということです。
逆にそれができるようになると
いろいろな事が
解決できてきます。
でも
とても難しいことですが
そういう風に
なれると
生き方も変わってくると
思いますよ!
主観的世界と客観的世界を
構造化してみる
ということは
どういう事かと
いうと。
それを
具体的に説明するために
<イジメ>ということを
例にとって
お話ししてみましょう。
冒頭の彼は
私との話の中で
イジメを受けている人間は
無条件に
イジメている方が悪い!
いうことを言われました。
それに対して
私は
ほんとうにそうだろうか?・・という疑問を
発しました。
他人をイジメルということなど
勿論
悪いことに決まっていますし、
そんなことなど
してはいけないに
決まっています。
しかし
イジメをしてはいけない…ということを
いくら言っても
それは解決にはなりません。
イジメている人間にも
イジメられている人間にも
それを言っても
何の効果もありません。
それは
イジメの火中にいない人間の
主観の感情論だからです。
また
それを根拠に
なんとかしようとしても
おそらくさらに
ややこしくなったり
グジャグジャになると
思います。
つまり
自分はイジメなど
絶対にしてはいけないし
さらに
いじめられている人を見つけたら
助けたいし。
いじめているヤツを許さない!
というのは
彼の主観の意識と感情で見た
自分の道理の世界で
(自分が正しいと思っている世界)
あり
主観としての
自分の意見を
いっているにすぎないのです。
勿論
とてもまっとうな事であり
正義感に満ちていると
思います。
しかし
それをいじめている人間に主張しても
いじめられている人間に伝えても
では
イジメが
消えるかというと
そうは
いかない。
なぜなら
イジメというのは
・いじめている人間と
・いじめられている人間の
双方の
<関係>において起きてゐる
<現象>だからです。
だからその
関係を解決していかなければ
ならないのです。
つまり
もしかしたら
イジメている人間も
ものすごく苦しいけど
でも
自分ではどうしようもなく
ついイジメてしまう。
いじめられて入る人間もものすごく
苦しいけど
イジメル人間をやっつけることもできない
さらにそいつから
離れることすら
出来ないで
関係を続けるしかない。
という
二人が創りだしている
<現象>なのですね。
その時
その関係性が
分るには
客観的に人間を洞察する
能力が
必要なのです。
自分を客観的に見ることができる人間は
他人をも
客観的に
みることが
できます。
しかし主観的にしか自分を見れない人間は
相手と自分とが
どういう関係性を持って
そこには
どういう構造があるかを
見抜くことが
できません。
例えば
こんな経験はありませんか?
いじられている人に対して
同情して
何とかしてあげたいと自分が思って
そういう風に
その人接しても
どういうわけか
いじめられている人は
自分のほうへ
余り関心をしめさない・・とか
助けてもらおうと
しない・・・とか。
イジメている人間から
離れてしまえばいいのに
なぜか
そこにくっついてしまっている。
むしろ
自分のほうには
そっけない!
というような経験は
ありませんか。
それは
イジメということを
イジメル人間と
イジメられる人間とが
双方で創りだしている
共依存的なソーン(構造)に
関係ない者は
入ることができないからです。
※その詳しい深層心理については過日書いたものがありますから良かったらそちらを読んでみてください。
つまり
要はその現象が起きていることの
根本的な原因を
客観的に分析しない限り
それは
解決できないと
いうことです。
解決するためには
イジメル人間と
イジメられる人間の
双方への
理解がないと
ダメなのですよ。
だから
いたずらに同情しても
正義感を振りかざしても
本人たちが
自分でその関係性を
解決していかない限り
それは
表面的な解決にしか
ならないと
いう事です。
そういう人間への
深い洞察と理解をもつと
人間は慎重になり
短絡的な正義感や
同情では解決できないと
いう事が分ってきます。
そして
ほんとに
イジメを解決したいなら
その現象を起こしている人間達の
深い内面の闇を解決していく必要が
あります。
もし自分が
いじめられているなら
自分はなぜイジメられるのかを
客観的に分析し、
自分の対人関係の内容や
反応のパターンに
気づく必要があります。
また
その弱さの原因となっているものを
取り除くカウンセリングを受け
自分を肯定し
強くなって
相手と闘うことです。
自分の中に弱さや
甘さや
依存があるのは
親との関係に
大きな原因があると
思われます。
まずそこから気づいていくことが
必須の条件ですが
それはとても難しい事ですが
しかし
それでも
イジメということの
構造を
周囲の人間が理解し
その人間が
自分の自我の弱さを乗り越えることへの
支援とエールを贈ることで
人間は少しずつ乗り越えていくことが
できます。
さてでは
自分の主観とは何か。
それは
自分が感じること
自分が考えることなど
自分が
意識している
自分の世界のなかの
自分の感情を含む
考えです。
逆に
客観とは
自分の主観の
外側に出来ている世界で
自分の主観とは
関係なく
起きている
事象や
世界です。
そして
<現象>とは
主観的な自分と
自分以外の客観的な人間との
間でおきる
事象です。
それは
自分と相手及び
自分と自分以外の
<関係性>の中で
たちあらわれてくる事象です。
その<関係性>とは
自分の持っている内容と
相手の持っている内容とが
接触し、
交流し
或いは
交叉する中で
起きてくる内容のことです。
たとえば
自分が好きだと思うものを
相手も好きだと思っていれば
お互いに共振し
共感しあえるかもしれません。
その関係性は
友好で
親密な内容となるかもしれません。
しかし
自分は好きなのに
相手はそれを嫌いと思っていると
そこには
違和感や
対抗感がうまれ
共感は生まれませんし
もしかしたら
友達という関係には
成れないかもしれません。
関係性というのは
常に
自分が自分以外の人間や事象との間で
創りだしている
状況や世界です。
だから
最もいい関係性は
主観的な自分とは
何であるか・・・という
自覚的な
観察と考察ができている。
さらに
相手に対しては
相手の側から見えるものは
何かという
相手の主観に対する
観察と考察ができている。
その主観と客観から
読み取れるものを
駆使し
それを
主観的に再度検証して
(それは、自分にとってどうであるかを
主観的にも客観的にも考えて)
行動し
交流する
というのがベストです。
しかし
問題は
この
客観的に相手や事象を
眺める・・・ということが出来る人は
なかなかいないということです。
だからこそ
トラブルが発生するのです。
つまり
そういう脳の訓練が
かなり
できていないと
人間は
ついつい
全てを
自分の主観で見てしまい
時に極めつけて
結論付けてしまうと
いうことです。
たいがいのトラブルは
この
自分の主観からしか
物事を
見れないということが
ほとんどです。
そしてトラブルが解決するには
主観と客観とが
使えるようになるということです。
それは両方を俯瞰することで
理性や知力が
働き
感情の暴走を抑えるからです。
感情が暴走する根底には
物事が
みえないという不安と恐れが
潜んでいるからです。
しかし
よく見えてくると
なんだそうかあーで
お終いです。
そして
最も厄介なことは
主観というものに
自分の個人的な感情が
付着している場合です。
まあ
ほとんどの人は
自分の感情を
<相対化>して見る・・・ということが
余りできませんから
※感情を相対化して見るということは
自分の感情は
ほんとうにその感情のとおりなのか?
それともそうではなく
勘違いや思い過ごしかもしれない?
さらに
その感情はどうして
おきてくるであろうか・・などなど
感情を
いったん外側から眺めて
分析することです。
それは感情だけでなく
自分の意識も
行動も相対化できてくると
世界は違ってみえてきます。
相対化の反対は
自分の感情を絶対化して
間違いないと
自己合理化してしまうことです。
(合理化とは
自分の理屈に合わせてしまうことです)
相対化できない人は
自分の感情が妥当か
そうでないか、
すら
検証もせず
疑いもせず
自分の主張と感情を
そのまま拡張させて
相手にあてはめて
相手や状況をみてしまい
時に
極めつけてしまいます。
だから
イジメというのも
自分はイジメは
いけないと思うから
イジメはやめた方がいい・・・と
思って
それを主張しても
ちっとも
イジメル人にも
イジメラレル人にも
寄り添うことを
しておらず
なにも解決しないと
いうことです。
なぜなら
それは
その人の主観にすぎない
ということを
自覚しないまま
それで
イジメが無くなる・・・という風な
短絡的をし
感違いを
してしまうからです。
或いは
イジメが
なんとかなるような
幻想を
持ってしまう。
でもね
イジメは
イジメル人間と
イジメられる人間の
双方の
個人的事情が関係の中で
交叉し
起きてくる現象ですから
イジメル人間の事情や心理と
イジメラレル人間の事情と心理の
二つを
客観的に分析しない限り
根本的な
解決がなされないのですね。
解決されたように見えても
その人間達の
心模様(関係性)は
変わらないのですから
また
相手を変えて
同じことを
するでしょう。
どういうわけか
日本人も
日本の社会も
主観的な人間が
主観的な持論を振りかざすだけで
構造的に変えていくということを
しません。
もし構造的に変える視点があるなら
学校制度などは
とっくに
変わっているでしょう!
受験制度などは
削除されるはずです。
そして教師たちは
イジメを解決する能力を
身に着けるはずなのですが・・・。
そして
この主観的にしか物事を
見れないということから起きてくる
ことが
トラブルの原因になることが
多く
その
トラブルの
他の例として
たとえば
・離婚のことが起きたときや
・職場その他の
・何かの
・人間関係においての
・トラブルが起きたときなど
そこに客観的な視点があると
深刻には
なりえません。
なぜなら
相手も問題なら
自分も問題で
問題のある者同士が
トラブルのですからね。
でも多くの人間は
自分の主観的世界だけで
相手を見てしまい
相手のここが悪い
相手のここが間違っている
という風に
自分から見える風景ばかりを
主張してしまう人が
たくさんいます。
しかし
そういう自分は
相手からみると
どういう風にみえるだろうか?
自分の思いや考えと
相手の思いや考えとは
どういう風に違い
どういう風な行き違いが
起きているのだろうか・・・・と
いう風に
客観的に自分を見ることが
なかなかできません。
自分にとっては道理であり
正しいと思っているけれど
ほんとうにそうだろうか?
と
自分を突き離し
客観的に
お互いをみてみると
そこに
自分と相手との
<関係性>が
見えてきます。
つまり相手と自分とが
その関係性の内容を
創ってきたのかが
見えてきます。
さらに
その関係性における
お互いの差異や
誤解や
行き違いも
鮮明になってきます。
しかも
たいがいの人は
相手の中に
自分には
思いもよらない
相手の
自己世界がある
ということすら
理解できません。
(自分のことを基準にして
相手もそうに違いはないと
思いこんでしまっているのです。
でも個々人の頭の中は
月とすっぽん
山と海ほどに
違うのですよ!
でも困ったことに
それがピンとこない人の方が大勢です)
そして厄介なのは
やはり
感情です。
というのは
そういう
自分の主観に
感情が付着してしまうと
たとえ
相手を客観的にみても
自分の感情が
自己防衛てきに働くとか
或いは
自分の都合のよいように
相手の客観性を
ねじ曲げてみてしまったり
するのですよ。
人間はなんて
厄介なのでしょうかね~。
他人ことはいろいろ見えても
自分のことには
気づかない!
つまり
自分を客観的にみることこそ
そういう発想法を身に着けるよう
努力し
トレーニングする必要が
あるのですね。
不安なんてものも
そうです。
その不安はほんとに
客観的に存在するのかどうか?
本当は実態がないのに
自分の主観の思い込みを
シュミレーションして過剰に亡霊化して
影におびえているだけではないか
どうか?
ほんとうに
そういう事が
起きてゐるか
どうか?
でも
この客観性ができ
主観と客観とを
冷静に見れるようになる
つまり
物事を
構造的にみれるようになると
ほとんどの
トラブルや
悩みは
解決していきます。
さらに
心理不安や
強迫観念も
感情の暴走を
理性できちんと
説得できるようになります。
人間洞察が
深くなっていくのです。
どうでしょう?
貴方は
主観ばかりで
物事を
みてはいませんか?
主観的な自分ではなく
主観と客観の両方を
上から見渡して見る。
さらに
理性できちんと
把握しながら
感情の暴走をする自分の意識を
修正していく。
それができるようになれば
ほとんどのことは
解決します。
イジメのことも
双方が陥っている
構造に
メスを入れていくことが
必要です。
その構造の根底には
それらの人間の
主観的思いこみの世界や
感情世界の歪みがあります。
そこをこそ
見ていかないと
ダメですね。
そして
イジメをやめさせるには
どちらに対しても
深い理解と
共感をもたなければ
なりません。
その現象の奥には
どちらもが
深い傷を負っている
人間がいるのだと
いうことです。
次回は
主観の自分が思いこんでいることを
相対化する・・・・と言うことを
書いてみます。

私達同じ色でも
違うでしょ!
彼は心理不安で苦しまれているようなのですが、
そのお話の中で
イジメについてお話し
しました。
その時
フッと
彼が陥っている
<主観的な思い込みの世界>は
もしかしたら
同じように苦しんでいる
他のひとも
また
人間関係における
トラブルに陥っているひとに
とっても
根本的な問題性としても
その事があるのでは
ないかと
思いました。
それで今日からは
なるべく
分りやすく
その事を書いてみます。
それは
・主観的な世界と
・客観的な世界とを
◎ 構造的にみることができないと
なにも解決できないと
ということです。
逆にそれができるようになると
いろいろな事が
解決できてきます。
でも
とても難しいことですが
そういう風に
なれると
生き方も変わってくると
思いますよ!
主観的世界と客観的世界を
構造化してみる
ということは
どういう事かと
いうと。
それを
具体的に説明するために
<イジメ>ということを
例にとって
お話ししてみましょう。
冒頭の彼は
私との話の中で
イジメを受けている人間は
無条件に
イジメている方が悪い!
いうことを言われました。
それに対して
私は
ほんとうにそうだろうか?・・という疑問を
発しました。
他人をイジメルということなど
勿論
悪いことに決まっていますし、
そんなことなど
してはいけないに
決まっています。
しかし
イジメをしてはいけない…ということを
いくら言っても
それは解決にはなりません。
イジメている人間にも
イジメられている人間にも
それを言っても
何の効果もありません。
それは
イジメの火中にいない人間の
主観の感情論だからです。
また
それを根拠に
なんとかしようとしても
おそらくさらに
ややこしくなったり
グジャグジャになると
思います。
つまり
自分はイジメなど
絶対にしてはいけないし
さらに
いじめられている人を見つけたら
助けたいし。
いじめているヤツを許さない!
というのは
彼の主観の意識と感情で見た
自分の道理の世界で
(自分が正しいと思っている世界)
あり
主観としての
自分の意見を
いっているにすぎないのです。
勿論
とてもまっとうな事であり
正義感に満ちていると
思います。
しかし
それをいじめている人間に主張しても
いじめられている人間に伝えても
では
イジメが
消えるかというと
そうは
いかない。
なぜなら
イジメというのは
・いじめている人間と
・いじめられている人間の
双方の
<関係>において起きてゐる
<現象>だからです。
だからその
関係を解決していかなければ
ならないのです。
つまり
もしかしたら
イジメている人間も
ものすごく苦しいけど
でも
自分ではどうしようもなく
ついイジメてしまう。
いじめられて入る人間もものすごく
苦しいけど
イジメル人間をやっつけることもできない
さらにそいつから
離れることすら
出来ないで
関係を続けるしかない。
という
二人が創りだしている
<現象>なのですね。
その時
その関係性が
分るには
客観的に人間を洞察する
能力が
必要なのです。
自分を客観的に見ることができる人間は
他人をも
客観的に
みることが
できます。
しかし主観的にしか自分を見れない人間は
相手と自分とが
どういう関係性を持って
そこには
どういう構造があるかを
見抜くことが
できません。
例えば
こんな経験はありませんか?
いじられている人に対して
同情して
何とかしてあげたいと自分が思って
そういう風に
その人接しても
どういうわけか
いじめられている人は
自分のほうへ
余り関心をしめさない・・とか
助けてもらおうと
しない・・・とか。
イジメている人間から
離れてしまえばいいのに
なぜか
そこにくっついてしまっている。
むしろ
自分のほうには
そっけない!
というような経験は
ありませんか。
それは
イジメということを
イジメル人間と
イジメられる人間とが
双方で創りだしている
共依存的なソーン(構造)に
関係ない者は
入ることができないからです。
※その詳しい深層心理については過日書いたものがありますから良かったらそちらを読んでみてください。
つまり
要はその現象が起きていることの
根本的な原因を
客観的に分析しない限り
それは
解決できないと
いうことです。
解決するためには
イジメル人間と
イジメられる人間の
双方への
理解がないと
ダメなのですよ。
だから
いたずらに同情しても
正義感を振りかざしても
本人たちが
自分でその関係性を
解決していかない限り
それは
表面的な解決にしか
ならないと
いう事です。
そういう人間への
深い洞察と理解をもつと
人間は慎重になり
短絡的な正義感や
同情では解決できないと
いう事が分ってきます。
そして
ほんとに
イジメを解決したいなら
その現象を起こしている人間達の
深い内面の闇を解決していく必要が
あります。
もし自分が
いじめられているなら
自分はなぜイジメられるのかを
客観的に分析し、
自分の対人関係の内容や
反応のパターンに
気づく必要があります。
また
その弱さの原因となっているものを
取り除くカウンセリングを受け
自分を肯定し
強くなって
相手と闘うことです。
自分の中に弱さや
甘さや
依存があるのは
親との関係に
大きな原因があると
思われます。
まずそこから気づいていくことが
必須の条件ですが
それはとても難しい事ですが
しかし
それでも
イジメということの
構造を
周囲の人間が理解し
その人間が
自分の自我の弱さを乗り越えることへの
支援とエールを贈ることで
人間は少しずつ乗り越えていくことが
できます。
さてでは
自分の主観とは何か。
それは
自分が感じること
自分が考えることなど
自分が
意識している
自分の世界のなかの
自分の感情を含む
考えです。
逆に
客観とは
自分の主観の
外側に出来ている世界で
自分の主観とは
関係なく
起きている
事象や
世界です。
そして
<現象>とは
主観的な自分と
自分以外の客観的な人間との
間でおきる
事象です。
それは
自分と相手及び
自分と自分以外の
<関係性>の中で
たちあらわれてくる事象です。
その<関係性>とは
自分の持っている内容と
相手の持っている内容とが
接触し、
交流し
或いは
交叉する中で
起きてくる内容のことです。
たとえば
自分が好きだと思うものを
相手も好きだと思っていれば
お互いに共振し
共感しあえるかもしれません。
その関係性は
友好で
親密な内容となるかもしれません。
しかし
自分は好きなのに
相手はそれを嫌いと思っていると
そこには
違和感や
対抗感がうまれ
共感は生まれませんし
もしかしたら
友達という関係には
成れないかもしれません。
関係性というのは
常に
自分が自分以外の人間や事象との間で
創りだしている
状況や世界です。
だから
最もいい関係性は
主観的な自分とは
何であるか・・・という
自覚的な
観察と考察ができている。
さらに
相手に対しては
相手の側から見えるものは
何かという
相手の主観に対する
観察と考察ができている。
その主観と客観から
読み取れるものを
駆使し
それを
主観的に再度検証して
(それは、自分にとってどうであるかを
主観的にも客観的にも考えて)
行動し
交流する
というのがベストです。
しかし
問題は
この
客観的に相手や事象を
眺める・・・ということが出来る人は
なかなかいないということです。
だからこそ
トラブルが発生するのです。
つまり
そういう脳の訓練が
かなり
できていないと
人間は
ついつい
全てを
自分の主観で見てしまい
時に極めつけて
結論付けてしまうと
いうことです。
たいがいのトラブルは
この
自分の主観からしか
物事を
見れないということが
ほとんどです。
そしてトラブルが解決するには
主観と客観とが
使えるようになるということです。
それは両方を俯瞰することで
理性や知力が
働き
感情の暴走を抑えるからです。
感情が暴走する根底には
物事が
みえないという不安と恐れが
潜んでいるからです。
しかし
よく見えてくると
なんだそうかあーで
お終いです。
そして
最も厄介なことは
主観というものに
自分の個人的な感情が
付着している場合です。
まあ
ほとんどの人は
自分の感情を
<相対化>して見る・・・ということが
余りできませんから
※感情を相対化して見るということは
自分の感情は
ほんとうにその感情のとおりなのか?
それともそうではなく
勘違いや思い過ごしかもしれない?
さらに
その感情はどうして
おきてくるであろうか・・などなど
感情を
いったん外側から眺めて
分析することです。
それは感情だけでなく
自分の意識も
行動も相対化できてくると
世界は違ってみえてきます。
相対化の反対は
自分の感情を絶対化して
間違いないと
自己合理化してしまうことです。
(合理化とは
自分の理屈に合わせてしまうことです)
相対化できない人は
自分の感情が妥当か
そうでないか、
すら
検証もせず
疑いもせず
自分の主張と感情を
そのまま拡張させて
相手にあてはめて
相手や状況をみてしまい
時に
極めつけてしまいます。
だから
イジメというのも
自分はイジメは
いけないと思うから
イジメはやめた方がいい・・・と
思って
それを主張しても
ちっとも
イジメル人にも
イジメラレル人にも
寄り添うことを
しておらず
なにも解決しないと
いうことです。
なぜなら
それは
その人の主観にすぎない
ということを
自覚しないまま
それで
イジメが無くなる・・・という風な
短絡的をし
感違いを
してしまうからです。
或いは
イジメが
なんとかなるような
幻想を
持ってしまう。
でもね
イジメは
イジメル人間と
イジメられる人間の
双方の
個人的事情が関係の中で
交叉し
起きてくる現象ですから
イジメル人間の事情や心理と
イジメラレル人間の事情と心理の
二つを
客観的に分析しない限り
根本的な
解決がなされないのですね。
解決されたように見えても
その人間達の
心模様(関係性)は
変わらないのですから
また
相手を変えて
同じことを
するでしょう。
どういうわけか
日本人も
日本の社会も
主観的な人間が
主観的な持論を振りかざすだけで
構造的に変えていくということを
しません。
もし構造的に変える視点があるなら
学校制度などは
とっくに
変わっているでしょう!
受験制度などは
削除されるはずです。
そして教師たちは
イジメを解決する能力を
身に着けるはずなのですが・・・。
そして
この主観的にしか物事を
見れないということから起きてくる
ことが
トラブルの原因になることが
多く
その
トラブルの
他の例として
たとえば
・離婚のことが起きたときや
・職場その他の
・何かの
・人間関係においての
・トラブルが起きたときなど
そこに客観的な視点があると
深刻には
なりえません。
なぜなら
相手も問題なら
自分も問題で
問題のある者同士が
トラブルのですからね。
でも多くの人間は
自分の主観的世界だけで
相手を見てしまい
相手のここが悪い
相手のここが間違っている
という風に
自分から見える風景ばかりを
主張してしまう人が
たくさんいます。
しかし
そういう自分は
相手からみると
どういう風にみえるだろうか?
自分の思いや考えと
相手の思いや考えとは
どういう風に違い
どういう風な行き違いが
起きているのだろうか・・・・と
いう風に
客観的に自分を見ることが
なかなかできません。
自分にとっては道理であり
正しいと思っているけれど
ほんとうにそうだろうか?
と
自分を突き離し
客観的に
お互いをみてみると
そこに
自分と相手との
<関係性>が
見えてきます。
つまり相手と自分とが
その関係性の内容を
創ってきたのかが
見えてきます。
さらに
その関係性における
お互いの差異や
誤解や
行き違いも
鮮明になってきます。
しかも
たいがいの人は
相手の中に
自分には
思いもよらない
相手の
自己世界がある
ということすら
理解できません。
(自分のことを基準にして
相手もそうに違いはないと
思いこんでしまっているのです。
でも個々人の頭の中は
月とすっぽん
山と海ほどに
違うのですよ!
でも困ったことに
それがピンとこない人の方が大勢です)
そして厄介なのは
やはり
感情です。
というのは
そういう
自分の主観に
感情が付着してしまうと
たとえ
相手を客観的にみても
自分の感情が
自己防衛てきに働くとか
或いは
自分の都合のよいように
相手の客観性を
ねじ曲げてみてしまったり
するのですよ。
人間はなんて
厄介なのでしょうかね~。
他人ことはいろいろ見えても
自分のことには
気づかない!
つまり
自分を客観的にみることこそ
そういう発想法を身に着けるよう
努力し
トレーニングする必要が
あるのですね。
不安なんてものも
そうです。
その不安はほんとに
客観的に存在するのかどうか?
本当は実態がないのに
自分の主観の思い込みを
シュミレーションして過剰に亡霊化して
影におびえているだけではないか
どうか?
ほんとうに
そういう事が
起きてゐるか
どうか?
でも
この客観性ができ
主観と客観とを
冷静に見れるようになる
つまり
物事を
構造的にみれるようになると
ほとんどの
トラブルや
悩みは
解決していきます。
さらに
心理不安や
強迫観念も
感情の暴走を
理性できちんと
説得できるようになります。
人間洞察が
深くなっていくのです。
どうでしょう?
貴方は
主観ばかりで
物事を
みてはいませんか?
主観的な自分ではなく
主観と客観の両方を
上から見渡して見る。
さらに
理性できちんと
把握しながら
感情の暴走をする自分の意識を
修正していく。
それができるようになれば
ほとんどのことは
解決します。
イジメのことも
双方が陥っている
構造に
メスを入れていくことが
必要です。
その構造の根底には
それらの人間の
主観的思いこみの世界や
感情世界の歪みがあります。
そこをこそ
見ていかないと
ダメですね。
そして
イジメをやめさせるには
どちらに対しても
深い理解と
共感をもたなければ
なりません。
その現象の奥には
どちらもが
深い傷を負っている
人間がいるのだと
いうことです。
次回は
主観の自分が思いこんでいることを
相対化する・・・・と言うことを
書いてみます。

違うでしょ!
by denshinbashira
| 2015-01-09 13:25
| 主観と客観を構造化して見る!
|
Comments(11)
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
突然のコメントで失礼致します。
娘のいじめに悩んで居ましたところ、こちらのブログに辿り着きました。
今回のブログを拝見し、如何に自分が主観のみで日々の生活を送って居るのかが分かり、とても恐ろしくなりました。
これでは、その最も強い影響下に居る娘がイジメにあうのも当然と言えるかもしれません。
まずは、私から主観と客観を構造化する訓練をして行きたいと思います。
私自身、体調不良や生き辛いと感じることが限界に達しつつあります。
今日、ブログを拝読し、原因が分かったように思えます。
とても大きな気付きをありがとうございます。
今後も、ブログからお勉強させていただきます。
娘のいじめに悩んで居ましたところ、こちらのブログに辿り着きました。
今回のブログを拝見し、如何に自分が主観のみで日々の生活を送って居るのかが分かり、とても恐ろしくなりました。
これでは、その最も強い影響下に居る娘がイジメにあうのも当然と言えるかもしれません。
まずは、私から主観と客観を構造化する訓練をして行きたいと思います。
私自身、体調不良や生き辛いと感じることが限界に達しつつあります。
今日、ブログを拝読し、原因が分かったように思えます。
とても大きな気付きをありがとうございます。
今後も、ブログからお勉強させていただきます。
0
21様、コメントをありがとうございました。
お尋ねの件について
たくさん書きましたから、
三つに分けて
コメントします。
その1
私にもゲイの友人がいます。
大切なお友達です。
彼はとても繊細でかつ
震えるような
素敵な感覚と感受性を持っており
だからもう
彼と交流することが
私は大好きです。
私も自分の性を相対化させてしまい
女性性と男性性を超越してさらに
時に女性の眼で、また
男性性が必要な場合は
男の眼で、この世の現象を見ますから
そこには
大きな立体的な世界がみえてきます。
彼は私が
そういう世界観で交流できる唯一の人です。
実は人間が
文化や歴史を創造してきたなかでは
ゲイの人々の貢献が大きいのです。
それは西洋、日本を問わず彼らの世界観が
そこに
大きく力を発揮しました。
古事記の世界、源氏物語、
そして世阿弥や西行や南方熊楠など
そこには両性具有(ゲイ)の世界があります。
日本の文化の幽玄の世界こそは
そういう両性具有の人々がその
礎を作ったのですね。
ユーチューブの対談でも
お話ししましたが
おそらく
竹取物語も作者はゲイではないかと
私は思います。
西洋の詩人や文豪などにも
ゲイの人が多く
アンデルセンもの
ゲイでもあり、彼は女性とも恋をしました。
さて貴方のコメントを拝見してすこし問題点を
助言させていただきます。
2に続く
お尋ねの件について
たくさん書きましたから、
三つに分けて
コメントします。
その1
私にもゲイの友人がいます。
大切なお友達です。
彼はとても繊細でかつ
震えるような
素敵な感覚と感受性を持っており
だからもう
彼と交流することが
私は大好きです。
私も自分の性を相対化させてしまい
女性性と男性性を超越してさらに
時に女性の眼で、また
男性性が必要な場合は
男の眼で、この世の現象を見ますから
そこには
大きな立体的な世界がみえてきます。
彼は私が
そういう世界観で交流できる唯一の人です。
実は人間が
文化や歴史を創造してきたなかでは
ゲイの人々の貢献が大きいのです。
それは西洋、日本を問わず彼らの世界観が
そこに
大きく力を発揮しました。
古事記の世界、源氏物語、
そして世阿弥や西行や南方熊楠など
そこには両性具有(ゲイ)の世界があります。
日本の文化の幽玄の世界こそは
そういう両性具有の人々がその
礎を作ったのですね。
ユーチューブの対談でも
お話ししましたが
おそらく
竹取物語も作者はゲイではないかと
私は思います。
西洋の詩人や文豪などにも
ゲイの人が多く
アンデルセンもの
ゲイでもあり、彼は女性とも恋をしました。
さて貴方のコメントを拝見してすこし問題点を
助言させていただきます。
2に続く
その2
まず
・貴方は受け身で
・悲観すぎます。
そして
・自分人生設計ができたいない。
●人生設計とは
・自分の可能性と
・自分の限界を
・よく見だめて
・なにを
・どのよにしたら
・自分を生かせるか
が
設計されていない。
ということです。
例えば貴方は
『言葉や料理で芸術的なものを作ります。
自分ができることはこのくらいでしょう』
↑
こう書いておられる。
それならば、
●言葉や料理で芸術的なものを作ることを
生かして
人生を設計したらどうですか。
しかし
「自分ができることはこのくらいでしょう」
という
よけいな言葉を貼り付けて
自分をディスカウントして
悲観的に位置づけ
さらに
・自分が勇気をださないことへの
・言い訳をしているように
見えます。
それは
貴方が物事を
・主観的
・感情的しか
・捉えていないために
・感情の方へと自分をシフトさせ
・感傷的に陥いり
・甘やかしていると
思います。
そこには
・理性的な考察と
・頭脳的な考察が
為されていません。
自分の<頭>の中の
整理が
為されていないのです。
自分の人生を
どのように生きるかを考えたら
当然のこととして
・自分にとって大事なひと
・逆に
・自分にとって
・どうでもいい人間はなにか?
という
整理をつけないかぎり
団子のような
不毛な人間関係に
振り回されて人生はお終いです。
・知性や教養の低い
・田舎のひととなんかと
・向き合い
日本の中でも
・ゲイを理解できない
・知性や教養が低い人たちを
相手に嘆いている。
・貴方は自分にとって
・大事なひとや
・自分にふさわしい人を
探しましたか?
・知性の教養も高い人々は
・ちゃんと
・ゲイのの世界にたいしての
・見識をもっています。
そうでない人間など
二流、三流の人間です。
まず
・貴方は受け身で
・悲観すぎます。
そして
・自分人生設計ができたいない。
●人生設計とは
・自分の可能性と
・自分の限界を
・よく見だめて
・なにを
・どのよにしたら
・自分を生かせるか
が
設計されていない。
ということです。
例えば貴方は
『言葉や料理で芸術的なものを作ります。
自分ができることはこのくらいでしょう』
↑
こう書いておられる。
それならば、
●言葉や料理で芸術的なものを作ることを
生かして
人生を設計したらどうですか。
しかし
「自分ができることはこのくらいでしょう」
という
よけいな言葉を貼り付けて
自分をディスカウントして
悲観的に位置づけ
さらに
・自分が勇気をださないことへの
・言い訳をしているように
見えます。
それは
貴方が物事を
・主観的
・感情的しか
・捉えていないために
・感情の方へと自分をシフトさせ
・感傷的に陥いり
・甘やかしていると
思います。
そこには
・理性的な考察と
・頭脳的な考察が
為されていません。
自分の<頭>の中の
整理が
為されていないのです。
自分の人生を
どのように生きるかを考えたら
当然のこととして
・自分にとって大事なひと
・逆に
・自分にとって
・どうでもいい人間はなにか?
という
整理をつけないかぎり
団子のような
不毛な人間関係に
振り回されて人生はお終いです。
・知性や教養の低い
・田舎のひととなんかと
・向き合い
日本の中でも
・ゲイを理解できない
・知性や教養が低い人たちを
相手に嘆いている。
・貴方は自分にとって
・大事なひとや
・自分にふさわしい人を
探しましたか?
・知性の教養も高い人々は
・ちゃんと
・ゲイのの世界にたいしての
・見識をもっています。
そうでない人間など
二流、三流の人間です。
その3
自分にとって
どうでもいい人は
流して付き合えばいいし
付き合わなくても
いいです。
また
貴方がゲイであっても
なくても
貴方自身を好きになってくれるひとと
付き合えばいいのです。
さらに
貴方がゲイだということで
貴方から離れる人間など
貴方にふさわしい人間では
ありません。
最後に人間の脳は
悲観的な反応をすればするほど
その回路が強化されていきます。
そして
悲観的な自分にたいして
●密の味がするはずですよ。
だから麻薬みたいに
・悲観的で
・受け身で生きる自分を
・甘やかすのです。
人間は自分という人間の
特色を
最大限に武器にして
生き延びていかなければ
敗北します。
敗北者はいつも
能動的に
自分で人生を
切り開くこを
サボり
他人や社会のせいにして
感傷的
或いは
絶望し
いつも欲求不満の自分で
いきてしまいます。
21さん
どうぞ
もっとオモロク
そして
賢く
さらに
自由にいきてみては
どうですか。
もし貴方が来れるなら
私のところへと
お出で下さい。
人間は
あゝ
この人にあいたいなあ~と
自分から扉を叩いたひとこそに
幸運があらわれるのですよ
それを
セレンディ―ピティーと
いいます。
まあ、こんなところですかね。
お役にたちましたでしょうか。
自分にとって
どうでもいい人は
流して付き合えばいいし
付き合わなくても
いいです。
また
貴方がゲイであっても
なくても
貴方自身を好きになってくれるひとと
付き合えばいいのです。
さらに
貴方がゲイだということで
貴方から離れる人間など
貴方にふさわしい人間では
ありません。
最後に人間の脳は
悲観的な反応をすればするほど
その回路が強化されていきます。
そして
悲観的な自分にたいして
●密の味がするはずですよ。
だから麻薬みたいに
・悲観的で
・受け身で生きる自分を
・甘やかすのです。
人間は自分という人間の
特色を
最大限に武器にして
生き延びていかなければ
敗北します。
敗北者はいつも
能動的に
自分で人生を
切り開くこを
サボり
他人や社会のせいにして
感傷的
或いは
絶望し
いつも欲求不満の自分で
いきてしまいます。
21さん
どうぞ
もっとオモロク
そして
賢く
さらに
自由にいきてみては
どうですか。
もし貴方が来れるなら
私のところへと
お出で下さい。
人間は
あゝ
この人にあいたいなあ~と
自分から扉を叩いたひとこそに
幸運があらわれるのですよ
それを
セレンディ―ピティーと
いいます。
まあ、こんなところですかね。
お役にたちましたでしょうか。
ひろ様、コメントをありがとうございました。
イジメの根っこにあるのは、その子供と親との関係の歪です。
もっというなら親の生き方の歪がその子供に投影されているのです。だから、親子の関係を改善していけば、自然にそれも解決していきます。もしお子さんがいじめられているなら、そこにはイジメル相手から付け入られる弱さを露呈しているからです。その弱さとは、依存や甘えがあり、また過剰な自己防衛があると思います。たいがいが自分の攻撃性を抑圧している、優等性のいい子ちゃんで、親がそれを求めているのです。親が強くなり、攻撃的な自分にOKをだし、きれいごとで生きる自分をやめる。また自分の子供に依存したり、甘えないで、親が自立的になることです。そして親子の信頼関係が成立すれば、子供は安心して
生きていけます。世の中に怖いものなどない!と親が後ろ姿で見せることだとおもいます!!
イジメの根っこにあるのは、その子供と親との関係の歪です。
もっというなら親の生き方の歪がその子供に投影されているのです。だから、親子の関係を改善していけば、自然にそれも解決していきます。もしお子さんがいじめられているなら、そこにはイジメル相手から付け入られる弱さを露呈しているからです。その弱さとは、依存や甘えがあり、また過剰な自己防衛があると思います。たいがいが自分の攻撃性を抑圧している、優等性のいい子ちゃんで、親がそれを求めているのです。親が強くなり、攻撃的な自分にOKをだし、きれいごとで生きる自分をやめる。また自分の子供に依存したり、甘えないで、親が自立的になることです。そして親子の信頼関係が成立すれば、子供は安心して
生きていけます。世の中に怖いものなどない!と親が後ろ姿で見せることだとおもいます!!
自分の主観を客観視出来るにも、相手の主観や、自分との関係性を相対化するにも、自他の分離が出来ているのが、最低条件のような気がしました。自分のことをわかってほしいという甘えが、入りこんでしまうと思うからです。自分を擁護したいといった甘えを、相手との関係性の中に持ち込み、相手を操作するような行動を無意識にとってしまったり、相手を否定することによって、自分を確立しようという、歪んだ形になったり、とか。私、今まで、さんざんそういう不毛なことをしてきたので、すごく納得しました(笑)。
相対化して見ることが出来るようになると、きっともっと世界が広がるのでしょうね。早くそうなれるといいなあと思います。
相対化して見ることが出来るようになると、きっともっと世界が広がるのでしょうね。早くそうなれるといいなあと思います。
丁寧にご教示頂き、ありがとうございます。
ここ数日、怒涛のように、私の今までの考え方や態度を改める必要性を知らしめるような出来事が続きました。
今までの自分の中に有った固い何かが、音を立てて割れ落ちる様な感覚が有り、沢山泣きました。
ただ、それは私にとって本当に必要なことなのだと強く感じています。
娘のイジメの問題はご指摘頂いた通りです。
道徳的な考えを押し付けて、娘をいい子で居る様に縛り付けていました。
本当は、とてもパワフルな子なので、さぞ息苦しかったことと思います。
子供達のパワーを私が奪っていたのだと分かりました。
私自身、今はまだヨチヨチ歩きの状態ですが、心の癖や傾向を変えようと、まずご教示頂きましたことを実践致します。
ここ数日、怒涛のように、私の今までの考え方や態度を改める必要性を知らしめるような出来事が続きました。
今までの自分の中に有った固い何かが、音を立てて割れ落ちる様な感覚が有り、沢山泣きました。
ただ、それは私にとって本当に必要なことなのだと強く感じています。
娘のイジメの問題はご指摘頂いた通りです。
道徳的な考えを押し付けて、娘をいい子で居る様に縛り付けていました。
本当は、とてもパワフルな子なので、さぞ息苦しかったことと思います。
子供達のパワーを私が奪っていたのだと分かりました。
私自身、今はまだヨチヨチ歩きの状態ですが、心の癖や傾向を変えようと、まずご教示頂きましたことを実践致します。
まる様、その通りです。素晴らしい!!人間の脳は頻繁に使う回路が発火しやすくなります。相対的な思考ができるようになり、それを使いこなしていくと、自分の中心に自分が据わるようになります。つまり相対化ということは自分というものを中心にして、外部世界を相対化するということなので、ますます自分をいうものが明確になるということです。
ひろ様、よろしゅうございました。ひろさんとお嬢さんとがいじめから脱出しイキイキとされるために、必要なら、何でも質問をしてください。お役にたてることなら喜んでお答えいたしますので。

