負けるという、最高の行為! |
<勝ちたい>という意識を持つ者は
実は
負け続ける。
今日は
どうしても
このことを伝えたい人が
ふたりおられます。
負けるということは
一見みじめな様相を持ちます。
しかしそれこそが
人間の心理に起きる
他者との人間関係の病理(病気)
から抜け出られる
最高のチャンスなのです。
負けることこそ
間違って思い込んだ
強迫観念から
解放されることであり
自分の欲や
執着から
解放されることです。
この負けるということを乗り越えたときこそ
自分の中の軸が通り
その軸(核)を中心に
自分の全体性が
シャンと
座ってきます。
覚悟ができてきた
ということです。
そこに
自分の自立や
自己完結(良い意味での自己完結です。)が
成立していきます。
つまり
・勝つ
・勝ちたい
・勝たなければならない
という
こころの病気から
抜け出ることこそ
カウンセリングの最終地点なのだと
私は思います。
反対に
勝つことを目指した人間
言い換えれば
・他者よりも上位に自分を置きたい人間
・自分を特別な人間のように思われたい人間
は
勝つたびに
勝つという強迫的な病理(狂気)の中へと
分け入ってしまう。
勝つことが進行すればするほど
<負ける>ことに対する脅迫的観念が進みますから
負けることを
自分に許さなくなる。
そういう人間が
もし負けると
負ければ負けるほど
<勝ち>への執着が強化されていきます。
だって
その人間は
負けたくないのですからね。
そして
さらに
より勝とうとし
勝った者への嫉妬に苛まれたり
負けたことに対して
しこったり
報復したいくなったり
という
厄介な感情が
その人間の心身をのっとっていきます。
つまり
こころはどんどんさらに病理へとすすむ。
こういう人間の深層には
ほんとうは
自分が勝つ人間ではないことを
漠然とわかっているが
そのことを決して表面意識に上らせないように
なかったことにしてしまう。
しかしねえ~、
こういう人は
実は
自分がまける機会を欲している。
つまり、負けた時こそ
自分が解放されるからです。
しかし
自分がその機会をつくりだす勇気も器量のないから
他人を巻き込む形で
その状況を作り出そうとするのです。
それは無意識にやってしまう行為です。
だからこういう人間は
もう
打ちのめされるほどの敗北を
味合わない限り
自分の勝ちたい意識から
解放されず
滅びへ、滅びへと
人生を
そこへと浪費していきます。
気の毒ですが・・・。
今、私はふたりのひとに
伝えたいと思っている。
AさんもBさんも
あなたが負けたことこそが
どれほど
あなたを
そのヘドロのような世界から
救い出したことか。
良かったね!
負けることは
あきらめることでもあるが
しかし
私は問いたい!
あなたは
何を
あきらめるのかね?・・・と。
あなたがあきらめなければならないことは
あなたの人生に
是非とも必要なことなのか?
逆に
あなたが勝つことの先に
なにがあるのか?
そこに幸せや
栄光があるのか?
栄光があるとしたら
それは
あなたに幸福を与えてくれるものであるか
どうか?
人間はよく、
勝つことに目がくらむ。
しかし勝った栄光も
一瞬のうちです。
きっと
気持ちも一瞬スーッとするでしょう!
でもそれも一瞬のことであり
やがて立ち現われるのは
興奮がさめて
潮が引いた後の風景です。
そこには栄光も興奮も冷めた、
もしかしたら
殺伐な風景しかないかもしれない。
しかし
その風景は
本当は、
はじめからそこにあった現実です。
現実とは
勝つことも
負けることもない
淡々とした日常が
横たわっているだけです。
勝ことに目がくらむということは
そういう
現実の実相が見えない状態です。
あるいは
現実を幻想化してしまい
現実を脚色化して
見失う。
この冷めた、
本当は厳しい現実の真実が
わからないからこそ
勝つことに
幻想を抱くのです。
現実とは
ほんとうは
勝つことも
負けることもない
ただただ
そこで起きる事象の関係による現象が
起きて
やがて
消えていくに
過ぎないのです。
愚かな者こそが
勝とうとするのですよ。
先日テレビをみていたら
なんだか有名人の
あたまが良さそうな人が動員されて
Qさまとかいうクイズをやっていました。
クイズの答えを言い当てて
秀才とか博学とかの賞賛をうけて・・・。
でも
この人たちは
ほんとうに
頭が良くて
優秀なのであろうか・・???
だっておかしいでしょ。
だって
この人たちが次々と繰り出すのは
もうすでに
答えが出ている問題です。
つまり
答えが出ている問題に取り組み
答えがでていつのを
なぞっているに過ぎないのですから
そんなことなど
どうでもいいのです
本当は。
まさに陳腐です。
もうお気づきですね。
答えがないところから
答えを導き出すのなら
それは
とても頭がいいことであり
また
未明の中から
だれも発見できなかったことを
発見したり
考えだすのなら
それは、大したものであり
素晴らしいことです。
ちゃんと脳が働いてくれています。
しかし
この人たちは
もう
答えの出ている問題を
なぞって
答えているに過ぎないのが
どうして秀才で
頭がいいのでしょうか・・・?
そして
ほんとうに頭のいい人は
こういうところへ
のこのこと
出てこないと
思います。
なぜなら
その人たちはきっと
こういうことなど
ばからしいと
思うでしょうからね。
日本人が
答えの出ている問題を
解くことが
優秀であるとか
頭がいい人であるという錯覚や
価値観をもってしまうのは
日本の受験勉強がもたらした
悪弊外です。
日本は
受験勉強という
もう
答えが出ているものばかりを
子供たちに
勉強させている。
そこに
創造性や自主性などが
育つわけがないです。
さらにもっと深刻なのは
そういうランクづけや
単一な価値意識を植え付けられた若者の
心理的な病理をうみだしている。
もう
諸悪の根源です。
みんな勘違いをして
無駄なコンプレックスに陥り
さらに
引きこもりや欝などの
原因になっています。
そういう人は
頭の使い方を
間違えているんだよ。
・大いなる勘違い
・大いなる錯覚
です。
そして、
もっと深刻なのは
こういう思いこみこそが
ブレーキになり
自分の能力を
開発できない脳に
なっていくことです。
人間の脳が
やわらかく
一番吸収力がある時に
受験勉強で
浪費してしまう。
そういう
受験勉強しか
してこなかった人間の
コンプレックスが
作り出す
間違った
・序列意識であり、人間のランク付けです。
受験のコンプレックスが裏返って起きる
優越感と劣等感など
くそくらえです。
ほんとうに
優秀であることや
聡明であることとは
どういうことであるかを
知らない、
わかっていない人たちの
ちっとも
本質的ではない
思い込みの世界です。
人生とは
生きることとは
●<答えのない>ところから
答えをみつけ
考えていくことです。
さらに
人生において
勝とか
負けるということは
ありません。
ただ確実にある現象は
・自分がどう生きたかが
・自分に返ってくるだけです。
自分の人生を
どのように幸福に満たしていくかと
勝とか、
負けるとかは
関係ありません。
人生は常に
自分にとって未知の未来を
切り開いてゆくしかないのです。
自分の
自分らしい生き方を
模索するしかないのです。
現実の実相を
よーく眺めてごらんなさいよ!
自分にとって
なにが
幸せであるか?
勝つことに
取りつかれたひとこそ
永遠に負け続けるしかない。
というこのパラドックスに
早く
気づけると
いいね。
それは受験に限らず
結婚や離婚においても
さらに
職場の人間関係においても
ありとあらゆることにおいて
負ける・・・ということこそ
最高の選択かもしれません。
人間はまけて
やっと本来の
自分らしい自分を
取り戻すことができる。
自立するということも
勝ち負けのフィールドとは
関係ない自分になると
いうことです。
最後に
本当に頭のいい人は
すぐわかります。
勉強などできなくても
学歴など関係なく
社会的地位などには興味もなく
謙虚で
偉ぶらず
でも
やっいることが
とても理にかなっている。
そこには
確実にその人の行為が
降り積もって
形になっています。
そして
そういう人は
たいがいが
シンプルです。
●第4回「秋のソナタ」映画から自由奔放によみとってみよう!
(伝心柱×村上浩康)
映画監督イングマール・ベルイマンの世界
第3回「ロゼッタ」
(伝心柱×村上浩康)映画監督ダルデンヌ兄弟
1時間半近い対談時間ですが
是非
ご覧ください!
第2回「オアシス」映画監督イ・チャンドンの世界
!
第一回「こわれゆく女」より
映画監督 ジョン・カサヴェテスの世界。
●<告知>
このたび本を書きました。
「拝啓宮沢賢治さま」不安の中のあなたへ
田下啓子(denshinbashira)著
(彩流社 1800円+税)
岡田愛さんという
うら若き女性の
パステル画家さんにお願いしました。
裏表紙の花は
賢治が大好きな
マグノリアの花です。
宮沢賢治も
最後は
「空はれわたる!」という
自立を果たしたと
思います。
どうぞ
皆さま
賢治が
・ほんとうはどういう人間であったか
そして彼は
・なにを勘違いし
・なにと
・戦ったか
を
読みとっていただければと
思います。