負けるという、最高の行為!その2 <寂静印> |
なんて厄介なのだろうと
思う。
感情を司る部位は
脳の中で
もっとも下位の脳なんだけど、
その脳がもう、すごいエネルギーパワーを
もっている。
この脳を制し、
コントロールしていくには
高い知性に基づいた
確信的な理念や信念や意志が
必要です。
確信的な理念を獲得するには
体験を深い考察のなかで
検証し
相対化し
そういう
自分の内面に向き合う
持続的な努力が必要です。
体験を相対化するためには
優れたたくさんの本を
読むことです。
歴史の中で
生き残っている本です。
体験も
負けた体験や
挫折の体験こそが
自分の内面の中に何があるかを知ることが
できる。
勝った体験も
成功体験として
とても大切ではあるが
しかしそれも
負けた中から立ち上がっていく体験の中でこそが
花開いてゆく。
つまり熟したうえの勝でないものは
すぐに風化してしまうのです。
そして
負けた体験からも
勝った体験からも
最後に行き着くのは
そういう勝ち負けを
超越した位相に存在しようとする
自分です。
『夢から醒める、ということが
感動の解体であるばかりでなく、
いっそう深い感動の獲得でもある。』
もう何度もご紹介しているこの言葉は
社会学者<見田宗介>さんの言葉ですが
『夢から醒める』・・・という
この言葉も意味の深さを
理解するには、
負けるということが
実はそれは敗北ではなく
新しい感動の人生を獲得することである
ということを
<体験>しなければ
わからないだろうと
思います。
それは親と格闘し
自分の依存を捨てて
自分の中の不安を
自分が引き受けていく決心ができて
初めて
<共依存>から脱却する。
この
親との分離を果たし
清々しい自分を
体験しないと
<共依存>の桎梏が
どれほど自分を
蝕んでいたかも
わからない。
同じように
自分の中にしこっている感情を正視し
その感情を追い出す決心のもとで
感情の掃除をする
段ボールワークを
体験しない限り
ネガティヴな感情から抜け出した自分が
どんなに軽やかになるかも
わからない。
つまり
人間は
体験しないと
何もわからないのです。
そして
体験する前は
体験することを
ひたすら恐れてしまう。
しかし
体験してみれば
あゝこんなに
たやすいことだったのかと
思うばかりです。
つまり
人間は、
自分の弱さと戦い
乗り越えないかぎり
清々しい境地も
新しい生き方も
凡庸な感動ではない
深い深い地の底から湧いてくるような
感動も
体験できないのです。
体験できないからこそ
そこには
恐ればかりに囚われる自分しかなく
広く大きな地平を見渡すような
<知>の慧眼も生まれないし
さらに
野を越え、谷を越えて
振り返ったときに見える
いちめんに咲くマグノリアの花を
みることもできない。
マグノリアの花とは
こぶしの花のことで
宮沢賢治の作品『マグノリアの木」で
<覚者の善>すなわち<寂静印>としている世界です。
<寂静印>とは
寂は煩悩を離れることで
静は苦しみを絶つことで
印は
それらの祈願や成就がなされたという
印です。
他人と対立することや
他人と争うことこや
自分の内部に湧き起こる感情を
乗り越えることを
ひとつひとつ体験し
越えてゆくことが
やがては
この<寂静印>の世界
すなわち<涅槃≒悟り>の境地へと
近づいてゆくことなのです。
その時
勝つなんてことが
あるいは
負けるなんてことに
囚われてしまうことが
もう
ちいさい、ちいさい
自分の欲や感情に囚われた
愚かしい人間の行為であることが
わかってきます。
足元をウロウロする人間たちの
煩悩の綱引きであることが
わかってきます。
同じ程度の人間が
足をひっぱり
頭をぶつけあい
自分の利己の方へと
綱を引く。
そういうところから
一歩抜け出すことこそが
夢から醒めて
もっと高次の世界へと
ジャンピングするということです。
そこには敗北なんてことはありません。
ひたすら
自分の生きることが
成就されていくのみです。
自分の生きることが
成就されるとは
自分の思う通りの人生を生きると
いうことです。
けわしい峰を超えたときに
眼下広がるのは
せいせいする平原が広がり
後ろの崖いちめんにマグノリアの花は咲くのです。
つまり、これまでの苦しみや苦労がすべて
実るということです。
その花に見送られて
もう
振り向かず
スタスタと歩きはじめる。
まだまだ
感情を超越できない私も
<寂静印>の世界へと
歩いています。
涅槃で
待ち合わせようね!・・・・笑!
ひたむきでいいね~!