心に沁みるイエスの言葉! |
でも
その夫でもある人のためにも
書きます。
人間はなぜ愛を求めるのでしょう。
みんな愛されたくて
震えている。
世界中の人が
愛を求めているのに
なぜ争うのか?
それは単純に
他人から愛を奪おうと
するからです。
自分の心の乾きを潤すために
他人から愛を
得ようとするからです。
<この世に存在している>ということは
愛されているから
存在できるのです。
つまり
人間の赤ん坊は
生まれた瞬間から
愛されたからこそ
生命が持続されているのです。
愛されたというのは
いい子ね、よしよし
あんたのほしいものをあげるわ
と
ゴロにゃん、ベタベタという
溺愛ではありません。
そもそも
人間の世界は
愛がないと
成立しないのです。
その愛とは
弱い人間に対する優しいまなざし
痛む人間に対する寄り添うまなざしを
自分にむけるのと同じように
他者へと向けるまなざしで
それは
空気のように
目には見えないけれども
あるのです。
溺愛、おぼれる愛、
つまり
自分の喉の渇きや甘えを
他人からの愛で
埋めようとする愛は
その瞬間だけは心と体をすっとさせてくれますが
しかし
確実にその人間の心を蝕んでいきます。
そういう
毒々しい愛では
ないのです。
ほんとうに
手のひら温もりのように
ささやかに差し出される愛
大したことはできないけど
大丈夫?という言葉しか
言えないけど
でも
どこか、
いっしょに生きている者どうしに
向けられる
愛です。
拙著「拝啓宮澤賢治様」で書いたように
兎のホモイが
川でおぼれるひばりの子供を
たすけずにはいられない
人間の本能的な行為です。
命と命の出会いがしらの純粋な
愛です。
目には
見えませんが
そういう愛が
この世に溢れているから
私たちは
存在できるのです。
では
どうして
争うのか?
それは
それ以上の愛を
他人から
貰おうとするからです。
奪おうとするからです。
人間の愛は無限ではありません。
それはほんとうに
限界があり
いわば、せいぜい
その人間が命を全うできる分くらいしか
ありません。
自分の命を全うできる分の
その少しの余力の愛を
おずおずと
他者へと差し出すのです。
だからこそ
奪ってはいけない。
エゴの感情や
欲を出しては
いけないのです。
愛については
イエスが最高の言葉をくれました。
それはキリスト教徒でなくとも
私たちの心に沁みる言葉でも
あります。
イエスも人間は
既に神から
愛を与えられていると
言っています。
そしてまた
イエス・・という言葉も
それでいいよ・・・という
最高の肯定のことばです。
しかし
イエスの説く愛は
厳しいです。
求めよ、そうすれば与えられるであろう。
捜せ、そうすれば見いだすであろう。
門をたたけ、そうすればあけてもらえるだろう。
すべてを求める者は得、
捜す者は見いだし
門をたたく者は
あけてもらえるからである。
さらにイエスは自分の子供がパンをもとめるのに
石を与える者がいるだろうか、
魚を求める者に蛇を与える者がいるだろうか
と
説きます。
そしてイエスは
そういう神の条理に
人間が包み込まれていると
話ます。
しかし一方
この愛の言葉のあとに
続けて
・甘えてはいけない
・自分のエゴに呑み込まれてはいけない
愛とは
自分にとって
もっとも厳しいことを選べと
説きます。
狭い門からはいれ。
滅びにいたる門は大きく、道は広い。
そして、そこからはいっていく者が多い。
命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者は
すくない。
自分のエゴや甘えに負けてしまう門は
広くて大きく、
それは簡単にそこへと陥ってしまいます。
しかし、それは
滅びにいたるのです。
自分にとって厳しく、
難しい門は狭く細く
なかなか通ることができません。
しかし、その道こそが
滅ぶどころか
神の愛の中に
包まれると説くのです。
『狭き門』
懐かしいですね~。
思春期のときアンドレ・ジイドのこの題の本を
夢中で読みました。
当時は聖書のことなどまったく知らずに読みました。
心が洗われた
もう遠い遠い若き日のことでしたね~。
人間は
愛の本質に気づくことで
強くなります。
また
謙虚になり
そのことが
その人間の生き方を
清々しいものにしていきます。
・狭き門より入れ!
勇気をもって
そして
凜として
自分の人生が滅びへと
至らないように
もっとも厳しい道を選ぶ。
あゝ
心に沁みるイエスの言葉です。