心に沁みるイエスの言葉!その2 |
その
夫さんのために書いています。
人間は常に意識という
想念を作り出しながらしか
いきれない。
その想念は
無意識をデーターベースに
して
創り出されている。
(あえて創る・・という字を書きました。)
だから
無意識の領域に
どういうものがあるか
ということが
実はとても重要なんだね。
自我でいうと
無意識のところで
自分のことを
どう思っているか・・・が
意識を創り出すのです。
無意識のところで
自分は愛されている
と思っている人間は
そうそう
他者に愛を求めないし
無意識のところで
人間は限界があり
人間は誰もが
ほどほどにしか
他人を愛せないと
認識できていれば
自分の心の渇きも
ほどほどに他者と交流すればいいと
あきらめることができる。
逆に
無意識のところが
乾ききっている人間や
自分は愛されていないと
思っている人間は
他者からの愛情をむさぼりとろうとする。
自分ばかりが
愛されていないと
思い込んでいる人間は
他人に嫉妬し
他者の注意(意識)を
自分に向けるべく
時に
やってはいけないことも
やってしまう。
ネガティヴな行動をする人も
やってはいけない事をする人間も
その無意識は
荒涼たる風景になっているんだね。
だから
他人からの愛を
むさぼっても
むさぼっても
その乾いた世界が
焼石に水のごとくに
潤えない。
これは苦しいね~。
人間は
つい無意識に突き動かされて
行動してしまうから
そういう人間は
やってしまったあとで
どうして俺はいつも
こういうことをしてしまうのか・・・と
自分に失望し絶望するが
しかし
自分の無意識の内容に
気づかないかぎり
その負のサイクルの中から
抜け出られません。
負の感情に負けてしまうのです。
イエスも釈迦もさらに
法然・親鸞も
そのことを
熟知しているがゆえに
いつも
罪をおかさなくてはいられない
よわくて
愚かで
小さな人間たちのこころの疼きへ
そのまなざしを
落としていました。
新約聖書の中にある
もっとも有名なイエスのことば
<山の上の垂訓>の
いちばん最初の
イエスのことばには
そのイエスの
溢れんばかりの彼らへの愛が
語られます。
こころの貧しい人たちは 幸いである、
天国はかれらのものである。
と。
やさしいねぇ~!
また法然、親鸞は
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで
悪人は勿論すべての人は
救われると
説きました。
それは
仏教の法華経の中に登場する
阿弥陀如来様が
菩薩の頃に(まだ修行中の頃)
この世のすべての人を救うという
<願>をかけられたからです。
だから
「南無阿弥陀仏」と唱える瞬間に
阿弥陀さまが
救ってくれるのです。
つまり
「南無阿弥陀仏」と唱える心の中に
もう
その人間の回心がある
ということなのです。
仏教の根底には
釈迦の説いた
「四諦」という考えがあります。
「四諦」というのは四つの真理ということで
<諦>とは、明らかにして、あきらめるという意味です。
<あきらめる>ということこそが
覚醒へとつながってゆくのです。
その「四諦」の筆頭にあるのは
<苦諦>(くたい)で
つまり生きることは
一切が<苦>であると
釈迦が、覚醒して
そうしたのです。
「四諦」というのは
・苦諦(くたい)
・集諦(じったい)
・滅諦(めったい)
・道諦(どうたい)
の四つで
・集諦は苦しみがなぜ起きるか
・滅対は苦しみの原因を断つにはどうしたらいいか
・道諦は苦しみを断つために具体的にはどうするか
を説いています。
つまり
釈迦も人間は、
自分ではどうにもならない
苦しみの中に取り込まれるからこそ
そこに
悪が生まれると
わかっていたのですね。
法然、そして
親鸞はさらに
阿弥陀如来様が
そういう人間の苦悩をすべてを
わかっておられる。
悪人こそが
いちばん
苦しみの底にいる人間だということを
わかっておられるからこそ
<悪人正機説>を
唱えました。
善人が救われるのに
どうして
もっと苦しみの中にある悪人が
すくわれないことが
あるものか・・・!と
説いたのです。
人間の無意識の中にる
苦い根っこである
・自己否定と
・自己ディスカウントによって
・被害者意識や妄想が起き
人間は悪(やってはいけないこと)を
しでかしてしまう。
そういう人間の
内的なもがきや
嘆きを
イエスも釈迦も法然も親鸞も
よーく理解して、
やさしいまなざしを
向けていたのですね。
イエスは感情的な愛で
釈迦は
論理的な愛で
それぞれが説きました。
そこには
無意識に踊らされてしまう
人間の不条理を
よーく
分かっていたんですね。
負けたくない
相手をやっつけてしまいたい
相手がねたましくてたまらない
相手の存在を全否定したい
という人間の心の底には
実は
自分を生きたい!
自分を生き生きと生かしたい!
という
人間の命の本質があり
命の底には
純粋な
澄んだ水がながれています。
その澄んだ水に
蓋をしてしまうのが
無意識の中にある
間違った人間観(自分観)
歪んだ心です。
それをデーターベースにしてしまった
歪んだ自我です。
(自我とは自己データーの集積です。)
しかしその心も
本来は清らかな心であったものが
人間と人間の関係の中で
・自分以外の他者によって歪められ
・自分以外の他者によって
・自分が否定され
・傷ついてしまった自我が
そうなってしまったのです。
だから人間の命の
いちばん底には
綺麗な
澄んだ水(心)が流れているんですよ。
イエスも釈迦も法然も親鸞も
そこに
まなざしを落としていたのですね。
その澄んだ水に向かって
言葉を吐いていたのです。
そして
どうしたら
自分が無意識のゆがみから
救い出せるかを
彼らは必至で説いたのですが。
私はこう思っています。
それは
出会うことです。
お出会いなさい!
いろんな出会いに
お出会いなさい。
出会いとは
そこに必ず学びがあります。
出会いは直面することでもあります。
それは
もしかしたら
自分の中の<悪>に
出会うことかもしれません。
でも
自分の中の悪にであうことは
そこに
必ず苦しみということへの
直面になるはずです。
その直面して苦しむ中から
出口の光を目指して
自分を
導いていけばいいのです。
私も常に自分の中の<悪>と
格闘しています。
嫉妬ぶかい私
自己愛に取り込まれる私
他人を否定したくなる私・・などなどと
まあ、いろいろと
今でも
瞬間的に
そういう私が出てきます・・・・笑!
でもね
その都度
追い払います。
イエスはそういう時
「去れ!」ということばで
追い払いました。
せっかくですから今日は
最後に
イエスの山の上の垂訓を
ご紹介しましょう!
こころの貧しい人たちは、さいわいである。
天国はかれらのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちはさいわいである、
かれらは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは,さいわいである。
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。
彼らは神をみるであろう。
平和をつくりだす人たちは、さいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
すべての人が平等であり
すべての人が
愛されているんだね~!
良かったね!


