心に沁みるイエスの言葉!その3 |
愛は情け深い。
また、ねたむことを
しない。
愛はたかぶらない、
誇らない、
無作法をしない、
自分の利益をもとめない、
いらだたない、
恨みをいだかない。
不義をよろこばないで
真理を喜ぶ。
そして、
すべてを忍び、
すべてを信じ
すべてを望み
すべてを耐える。
愛はいつまでも
絶えることがない。
これはイエスのことばでは
ありません。
イエスの死後
使徒に加わったパウロの言葉です。
パウロこそが
キリスト教を世界中に広めるための
礎をつくり
布教のために奔走した
使徒です。
彼は最初イエスの死後
キリスト教徒を迫害する若者でした。
しかしあるとき
突然光が指してきて、
彼は倒れます。
その倒れたパウロに(当時はサウロという名前でした。)
「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」という
声が聞こえます。
そこでサウロは
「あなたはどなたですか?」と
尋ねます。
すると
「私はあなたが迫害している
イエスである。
さあ、立って、町にはいって行きなさい。
そうすれば、そこであなたがなすべき事が
告げられるであろう。」
その声をきいてサウロは
立ち上がりますが
その時から眼がみえなくなります。
そしてダマスコの町へいきますが
そこでアナニヤという若者に会い
彼がサウロに手を置き
「兄弟サウロよ
あなたが来る途中で現れたイエスは
あなたが再び見えるようになるために
そして聖霊に満たされるように
私をここにおつかわしになったのです。」と
いいます。
そうすると
立ちどころに
サウロの眼からうろこが落ちて
元通りに見えるようになります。
実は
アナニヤは
イエスから啓示をうけて
サウロの家へ行くように指示をされます。
その時アナニヤはイエスに
サウロがエルサレムで
キリストの聖徒たちを捕縛し
どんなにひどいことを
しているかと
反論します。
しかしイエスは
「さあ、行きなさい。
あの人は、
異邦人たち、王たち、また
イスラエルの子らにも、
私の名を伝える器として、
私が選んだ者である。
私の名のために
彼がどんなにくるしまなければならないかを、
彼に知らせよう。」
と言います。
それでアナニヤは、仕方なくサウロの家へと
行ったのです。
この時イエスが
サウロ、のちのパウロこそが
その知性と言語力の豊穣さを持って
キリスト教を
世界宗教にまで広げることのできる
<器>であることを
見抜き
かれに死後を託したのです。
パウロはその知力と言語力をもって
ローマをはじめ
イスラエル周辺の各地へと
布教に奔走します。
その時布教のために書いた
膨大な手紙があり
その一つの
<コリント人への手紙>の中に
冒頭の言葉があるのです。
パウロは最後はエレサレムで捕縛され
ローマで死刑になります。
冒頭のパウロの愛の言葉は
愛とは
他者を
無心に愛しなさいと
いうことでもあります。
無心になり
自我のへの執着を解放つことこそ
自分が愛されることへと
繋がっていきます。
釈迦が説いたのも
自我の執着を明らかにし
明らかになったものは
解き放つ、手放す、
すなわち
諦めるという境地です。
諦めるというのは
悲観的な意味ではなく、
本質を
見極めると
いう意味です。
釈迦が説いたものに
<十二縁起>があります。
すべての現象は関係性の中にあり
その因縁(連鎖)によって
原因と結果が生じると
論じたものです。
その最初に語られるのが
<無明>という人間の状態です。
つまり
人間は
わけののわからないものによって
自分が囚われてしまことで、
そこにこそ
<苦しみ>が生じる
ということです。
現代的にいうと
人間の無意識の中にしこっている
自我の垢や汚れが
その人間の感情と意識を
のっとってしまい、
自分でもわけがわからないままに
衝動的に行動してしまったり
なんとなく、
やってはいけないことと
思いつつも
やってしまう。
という自分です。
どうしてそうなるかというと
そこには
自分は愛されている・・・という
自覚や認識が
欠落しているからです。
人間の記憶は
強烈な危機体験は
記憶されていきますが
空気のように愛されている体験は
記憶に残りません。
でも
空気のように
愛が与えられているからこそ
赤ん坊は成長し
人間は生き続けることが
できるのです。
自分が愛されていないと
思い込んでいる人間は
それが自我の垢や汚れとなり
他人から愛される欲望や
自分への強烈な執着になっていきます。
でも
愛されているのですよ。
だって
あなたは
いきているでしょ。
自分の自我のゆがみが
過剰に
相手からの愛を
むさぼりとろうとしてしまいます。
自分の利害ばかりに
固執します。
それが
わけのわからないうちに
自分の衝動や
行動になっていっている。
私は最近ある人に
「捨てたらどうですか?」と
言いました。
執着と執着とが
綱引きをして
さらに
無明にはいるなら
捨てたらどうですか・・・と
言いました。
時に捨てることも
愛です。
自分に執着して
綱を離せない人間。
しかし
綱を離され
相手を失ったときこそ
その人間は
もう
相手のいない
孤独の自分を
生きるしかない。
そこには
もう
暗がりしか
のこらない。
人間は時に
失ってから初めて
自分が
どれほど愛されていたかを
知るものです。
あなたは愛されていたのですよ。
イエスが伝えようとしているのも
あなたはもう、愛されているよ!
ということでした。
そしてパウロは
愛は絶えることがないと
書きました。
イエスもパウロも
人間は
神様から
愛されているんだよ!
と説きました。
そして現代の脳の研究において
人間の脳の中には
まるで神や聖霊のように
尊いことや
清らかなことに
反応する部位があるということです。
だからこそ
キリスト教も仏教も
生まれたのでしょう。
そのどちらともが
行き着く先に
無心の心を説きます。
愛されているんだよ!
忘れないでね!